元首相中曽根康弘氏が死去

中曽根氏は派閥時代の政治家

韓国新聞社のいい加減な報道

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筆者は昔、朝日新聞のエース記者のファンでした。
 そんなお花畑が、目覚めるキッカケ
とは?

 

 

 こうやって韓国のメディアは嘘をつく!

 

中曽根元首相の死去!

 2019年11月29日(金) 元首相の中曽根康弘氏がお亡くなりになった
 101歳だった。

 

 年齢で分かる通り、かなりの長寿だった。最近では珍しい大正生まれ(大正7年)であり、
戦前は海軍主計士官として戦地にも赴いていた。

 

 元々は内務省に勤めていたが、戦後は政治家として再出発。
1947年の選挙に群馬3区から立候補し、当選した。以後20回連続して当選。

 2003年当時の小泉首相から引導を渡されて、立候補を断念。
その後は一民間人として政治活動に勤しんでいた。

 

 因みに2003年衆議院選挙でも中曽根氏は立候補する気だったが、
彼は比例の単独だった。
当時、自民党では比例単独の場合73歳の定年制があり、
当時85歳になる中曽根氏はその基準に引っかかっていた。

 ただし中選挙区から小選挙区に移行するにあたり、
中曽根氏は小渕、福田の両候補に譲ることで北関東ブロックの比例終身1位を確約されており、
それを一方的に反故にされた形になった。

 

 中曽根氏は小泉首相のこの対応に怒り心頭だったが、講演会を解散させていることもあり、
小選挙区に出ても当選する見込みがなかったことから、結局そのまま引退した。

 同じく元首相の宮澤喜一氏も比例終身1位を確約されていたが、彼は小泉首相の方針に従い、
自ら身を引き、引退した。

 

 

 そして先日、101歳でその生涯を閉じたのだった。

 

 

 

 

中曽根時代の日本政治!

 中曽根氏は昔の派閥時代の政治家であり、そのため今の観点からは
随分古い政治手法の持ち主だった。

 当時は派閥に入り、そこで出世していくことが、政治家として大成する前提だった。
そして政党助成法などは無い時代だったため、自らの力で金を集めなければならなかった。

 

 それが一番うまかったのが田中角栄であるが、
中曽根氏も同様な方法で(金額は少ないながらも)集めていた。

 

 

 そのために必要だったのが政商だった。政商とは政治家とのコネクションで商売をしているような輩であり、渋沢栄一のようにそれを元に大きな会社にした人物もいるが、まさにコネクション頼みの政商もいた。ロッキード事件の小佐野賢治小針暦二、泉井石油商会の泉井純一などがいる。

 

その中には戦前右翼であり、ロッキード事件で注目を集めた児玉誉士夫などもいた。
彼は単なる政商ではないが、その力は厳然として会った。
そして中曽根に極めて近い人物でもあった。
というより、中曽根が児玉誉士夫に使われていたと言った方が良い。

 

 

このように中曽根氏の時代は現在とは違い、非常に「黒い時代」が長く続いた。
当時としては当然であったのだが、派閥政治の全盛の時代、金を集めないと人を集められず、
そうしないと政治的影響力を確保できなかった。

 

 

ところでその中曽根氏は当時としては比較的珍しいタカ派の政治家だった。
中曽根氏が有力政治家となる70年代以降は学生運動の余波もあり、社会は左傾化していた。
一応80年代の政治は「保守回帰」と言われるが、世論としては戦前を否定する風潮が激しかった。

 

それ故に憲法改正などは言いにくい風潮があった。

 

 

その中で中曽根氏は憲法改正を主張。それを自身の政治生命をかけてやっていたのだ。
彼は戦後政治の総決算として、日本再軍備や防衛費の増額などをやっていたが、
同じ文脈でこだわったのが靖国参拝だった。

 

 

 

 

 

靖国参拝問題!

 中曽根氏は靖国参拝問題にこだわっていた。それも普通に参拝することではなく、
公式参拝を行おうとしていた。

 

 彼は1982年11月に首相になると、その翌年4月には最初の参拝を行う。
そしてその後、83年に3回、84年に4回の参拝を行った。

 そして85年にも1月と4月に参拝していたが、その年の8月に初めての公式参拝をすると、
中国などから反発を受けて、その翌年から参拝を見合わせた。

 

 

 これが今日まで続く、靖国参拝問題になっている。

 

 

 この問題は日本、中国、韓国などの問題ではなくなっているが、元々は日本の国内問題だった。

 日本国内の保革の争いの中で、復古思想を持つ保守政治家を牽制するために、
進歩的革新的な政治家やメディア、知識人などが中国などを焚き付けて争いごとを起こしたのだ。

 因みに当初は韓国での反発は大きくなかったが、しばらくすると中国の反発に便乗するようになっていった。

 

 ご興味のある方はこちらの記事をご覧ください

 「靖国参拝 中国と韓国の事情 

 

 「A級戦犯と韓国は何も関係ない

 中国はA級戦犯にまったく興味がなかった


 

 中国はむしろ日本の軍備増強を求めていた

  

 1983年 中曽根首相は3回靖国参拝した

  

 1984年 中曽根首相は4回靖国参拝した

     

 韓国大統領も興味なし

  

 中国の委員長も靖国参拝を問題視しない

 

 そして靖国参拝の問題化

 

 

 このように靖国参拝問題とは国内問題から起きている。国内で保革の争いがあり、
情勢が不利だと思った進歩側が国外の世論を煽って、国内問題に干渉させた。

 

 それが事の真相なのだ

 

 

 そういう意味ではいい加減な報道の犠牲になのが、日韓の世論だと言えるだろうが、
いい加減な報道は日本だけではなく、韓国の報道機関も同様である。

 

 

 

 

 

韓国のいい加減な報道!

 中曽根氏が死去した後、日本のみならず世界各国で報道されているが
その中で韓国の中央日報が以下の様な記事(2019年11月29日)を掲載した。

 

日本首相で最初に靖国神社参拝した中曽根康弘元首相が死去

 

日本政界の保守の源流に挙げられる中曽根康弘元首相が29日、死去した。
101歳だった。NHKなどによると、中曽根氏はこの日午前7時ごろ、
東京都内の病院で亡くなった。

 

1918年5月27日に群馬県で生まれた中曽根氏は、東京大を卒業した後、
旧内務省で官僚生活を始めた。28歳だった1947年に衆院議員に当選して政界に入門し、
20回当選した中曽根氏は、第71、72、73代首相を務めた。
首相在任期間は1806日で、歴代5番目に長い。

 

中曽根氏は56年間、衆議院議員として平和憲法改正など右傾化路線を唱え、
85年8月15日に日本首相では初めて靖国神社を参拝した
2003年11月に小泉純一郎当時首相が「衆院比例代表73歳定年制」を適用すると、
当時85歳だった中曽根氏は立候補を断念して引退声明を発表し、政界から退いた。

赤字は筆者

 

 

 この記事では明らかに中曽根氏が1度しか参拝していないかのような報道をしている。
そして記事を書いた本人もそう考えているようだ。

 

 また中曽根氏が複数回参拝しただけではなく、戦後の初代首相である東久邇宮から
歴代首相が参拝したこと、A級戦犯合祀(1978年)された後でも
大平首相、鈴木首相が参拝していることなどを理解していない。

 

 

 このような報道姿勢なのは事実を報道するよりも、日本国首相が靖国神社に参拝しても
「中国や韓国が反発していない」ことが世間に知られることを恐れているからではないか?

 

 

 中曽根首相の靖国参拝の断念。これこそが日本の戦後政治の大失敗であり、
それを煽り立てていた日本の左翼も同罪である。

 

 そして今でも靖国参拝問題で嘘を吹聴する韓国の新聞社は、
このような状況を拡大再生している元凶であると思うのだ。

 

 

 

 筆者は昔、朝日新聞のエース記者のファンでした。
 そんなお花畑が、目覚めるキッカケ
とは?