沈丁花の「反日は差別なり」

なぜ日韓関係が悪いのか?その原因は韓国の反日にある。 そして反日とは差別であるということを説明します。 その他中国を始めとする国際ネタ。国内政治ネタも少し触れます。 沈丁花(ちんちょうげ)とはブログ主の子供の頃のあだ名です。それ故に決して(じんちょうげ)とは読まないでください。

戦前のコリアンの犯罪

沈丁花の名前で動画チャンネルもやっています。
2月17日更新 ぜひご覧ください。

日本共産党の松竹氏への除名処分は47年前に予言されていた。
「(共産党)松竹氏の除名処分は47年前に予言されていた!」
https://www.youtube.com/watch?v=gaRaQkd_wCY

関東大震災における朝鮮人虐殺が起きた朝鮮人側の要因(1)

関東大震災の2年前に起こった事件

日本人16人を死傷させた朝鮮人 李判能事件

 

<ポイント>

・関東大震災時の朝鮮人虐殺のキッカケ

・李判能事件を知っているか?

・日本人16人を殺傷した朝鮮人

 

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関東大震災の朝鮮人虐殺のキッカケ
東京市電運転手連続殺傷事件(李判能事件)

 通常、筆者は朝鮮半島出身者を「コリアン」という言葉で記載する。
  ただし今回は「朝鮮人虐殺」がほとんど固有名詞になっているので、
  煩雑さを避けるために「朝鮮人」で統一する。もちろんそこには差別的意図はない

 

 

 「関東大震災における朝鮮人虐殺が起きた朝鮮人側の要因(2)」に続く



1923年9月1日 東京を中心に巨大地震が襲った。
関東大震災である。今年は関東大震災から100周年となる。

この地震では多くの被害が出たが、それにもまして恐ろしかったのは
行政機関が一時的にマヒしたことだ。
そのため治安が一時的に乱れることになった。

この時に起きたのが朝鮮人虐殺である。


これは治安秩序が乱れた中で、「朝鮮人が犯罪行為をしている」という噂が立ち、
それに対して日本の民衆が作った自警団等が暴走して、朝鮮人を殺傷したという事件だ。

 

巷ではこの朝鮮人虐殺はデマであるという説もあるが、
これは反日メディアだけではなく、当時の資料にも載っており、
多数の目撃証言もあるので間違いのない事実である

 

 

しかしこの事件を巡っては
“現代において”釈然としないものがある。

 

というのはこの事件が起きた要因を指摘するのではなく、
ただ単に「日本が悪い」という文脈“のみ”で使われているように思うからだ。

 

そう思うのは関東大震災における朝鮮人虐殺に対して、
日本側を非難する言説は溢れているのに、
朝鮮人側の要因を指摘することはほとんどないからだ。

事件には色々な要因がある
それなのにこの問題を取り上げる人たちは
「日本人=加害者」「朝鮮人=被害者」という関係のみを強調し、
それ以外の要因には目を背けようとしているように見える。

まるで現在の日本人を糾弾するために、事件を利用しているかのようだ。

このような事件が起きた日本人側だけではなく、朝鮮人側の要因も理解すべきだ。
そう…この事件が起きたのは朝鮮人側にも要因はあるのだ。


誤解されたら困るが筆者は朝鮮人虐殺を正当化しようとは思わない

しかしこの事件に関しては朝鮮人側の要因があまり指摘されていないと思う。
それ故にその観点から記事を書く。



それでは虐殺が起きた時の朝鮮人側の要因とは何か


 それは
日本人の恐怖だ!

当時の日本人は朝鮮人に対して恐怖心を持っていた。
彼らのことを恐れていたのだ

それ故に巨大地震が起きて、行政機能が停止し、治安に対する不安が起きると、
日本人は自警団を作り、過剰なまでの“防衛をしたのだ。

 

そして日本人(特に東京方面)が朝鮮人に恐怖心を持つには理由があった。

その理由とは何か?

 

そこで今回日本人が朝鮮人に対して恐怖するキッカケとなった
16人もの日本人を死傷した事件李判能事件について記す。
日本人は16人で、李判能の妻(朝鮮人)が被害者になっているので全部で17人である。

 

 

 

 

関東大震災前夜の朝鮮人の状況!

 1910年日本は朝鮮半島を併合した。
これによって日本と朝鮮半島は同じ国となり、
そのため朝鮮人は大挙して来日することになる。

その数は関東大震災の直前の10年間で20
(3,635→80,415)にもなる急増ぶりを示している。

 

<日本国内における在日朝鮮人数>
(警察資料「朝鮮人概況」より、数字は12月末)

            (在日朝鮮人数) (増減)

 1913年   3,635人

   14年   3,542人(   ▲93)

   15年   3,917人(   375)

   16年   5,624人( 1,707)

   17年  14,502人( 8,878)

   18年  22,411人( 7,909)

   19年  26,605人( 4,194)

   20年  30,189人( 3,584)

   21年  38,651人( 8,462)

   22年  59,722人(21,071)

   23年  80,415人(20,693)

   24年 118,152人(37,737)

   25年 129,870人(11,718)

   26年 148,015人(18,145) 

 

 このように朝鮮半島からの来日数は急激な上昇を示していた。
これは日本人の中に警戒心を引き起こす
それは欧米の状況を見ればわかる。

 アメリカではトランプ政権時代、メキシコからの移民流入を阻止するため
「国境に壁を作る」と公約した。
また欧州で極右政党が台頭しているのは彼らが移民排除を訴えているからだ。

 このように従来住んでいた人々にとって外国人の急激な流入は社会に不安を起こす。
朝鮮人の急激な人口増加は日本人の警戒を引き起こした。

 

 

 

 

当時の日本人の朝鮮人に対するイメージ!

 当時の日本人の、朝鮮人に対するイメージはどうか?
日本人は朝鮮人に対して暴力的なイメージを持っていた。

 

 例えば関東大震災が起きる4年前、1919年には三一独立運動が起きた。
これは大韓民国の独立運動だったが、日本国内では“暴動”と見られた。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%AE%9F

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9C%E5%AE%87%E5%A5%8E

 また同じ1919年には朝鮮総督斉藤実が現在のソウル駅で爆弾テロにあった

幸い斉藤総督にケガはなかったが、死傷者37を出す惨事となった。

 更に約10年前には初代総理大臣の伊藤博文テロにあって殺されている

 

このような事件が繰り返されることによって日本人には
朝鮮人に対して暴力的なイメージを持っていた。

 

 

 

 

犯罪者数と種類!

さらに来日朝鮮人を警戒する2つの理由があった。
一つは彼らの犯罪者数の多さだ。
もう一つは来日した彼らが定住しなかったことだ。

 

先に「定住しなかった」ことを説明しよう。

彼ら朝鮮人は朝鮮半島から来日したばかりだった。それ故に身軽だった。
そこで現在勤めている職場より、条件の良い職場があればすぐに異動した。

彼らは日本に来たばかりでそういうことができるのだが、
日本人からすると、隣に住んでいる人が急にいなくなり、
別の得体のしれない人物が住み着くことになる。
そういうことからも警戒感が高まった。

 

 

そして犯罪者数だが、
 少々時代は下るが、震災から4年後
(1927年12月)の資料
「内地に於ける朝鮮人と其犯罪に就て 昭和2年12月(司法省)」によると、
 「在日朝鮮人関係資料集成(1)」 P277より

内地に於ける朝鮮人は近来年毎に激増しつつあることは

 既に記述した処なるがその犯罪者も激増しつつある。

赤字は筆者

と記述しながら、内地の朝鮮人犯罪と半島の内地人犯罪を比較している。
因みに「内地」とは日本列島のことで「内地人」とは日本人のことである。

まず朝鮮人犯罪者数について引用すると、

 

        (犯罪者数)   (朝鮮人総数)    

1915年    44人      3,917人    

  16年    68人      5,624人     

  17年    72人     14,502人     

  18年   145人     22,411人    

  19年   237人     26,605人    

  20年   233人     30,189人

  21年   235人     38,651人

  22年   302人     59,722人

  23年   448人     80,415人

  24年   455人    118,152人

  25年   660人    129,890人

 

 このように朝鮮人の犯罪者は10年間で
44人から660人に激増している。

震災年1923年)に関しても448人と
1915年と比較して
10にもなっている。

 

確かに人口が激増をしているので、犯罪者が増えることも当たり前かもしれない。
しかし他方、朝鮮半島にいる日本人の場合は

         (犯罪者数)  (朝鮮半島内の日本人総数)

1915年    1,139人    303,659人

  25年      360人    424,740人

 

 と、人口が4割ほど増加しているが、犯罪者数は減少している

朝鮮人は人口増加とともに犯罪者数も増加している。
しかし日本人は人口の増加に関わらず犯罪者数は減少しているのだ。
大体、日本人は人口で3倍以上(約13万人対42万人:1925年時点)なのに、
犯罪者数は朝鮮人の半分程度(360人対660人)なのである。

如何に朝鮮人の犯罪者が多かったかわかるだろう。

 

 そして朝鮮人の犯罪の種類だが、
先の資料(「内地に於ける朝鮮人と其犯罪に就て 昭和2年12月(司法省)」)によると
一番多いのは窃盗で、2番目は傷害だった在日朝鮮人関係資料集成(1)P278

 例えば震災から2年後の1925年の数字では
「窃盗」が396件、「傷害」が137件となっている。
その他では「殺人」が10件、「猥褻・姦淫等」が6件となっている。

 このように窃盗が多いとはいえ、朝鮮人に犯罪者が多かったのは事実だ。

 

 ところで朝鮮人の犯罪の種類を見て意外に感じるところは、
いわゆる「婦女暴行」にあたる「猥褻・姦淫等」が意外に少ない

これは震災時の流言飛語で「朝鮮人が婦女暴行をしている」という
デマが広がったこととは整合性がとれない。

それならそのようなデマが吹聴される下地はあったのではないか?
実は犯罪事実が少ないが、それに類することが当時はあったのだ。

それは…姦通罪だ!

 

 

 

 

朝鮮人間の姦通罪!

実は数字には表れないが、
来日した朝鮮人間では女性の取り合いが多かった。

そして当時の日本では姦通罪という刑法上の罪があった。

姦通罪とは、婚姻している者が、他の者と姦通することにより成立する犯罪である。
この“犯罪”は、戦後には廃止された。
現在でいうと「浮気」である

 その姦通罪が朝鮮人間では多かったと思われる

 彼らは日本の警察に訴えないので数がわからないのだ。

 しかし1924年(震災の翌年)の大阪市社会部調査課による「朝鮮人労働者調査」では、
「在日朝鮮人関係資料集成(1)」P393より

親告罪であるが故に、この犯罪統計表には表はて居ないが、彼等の間に縷々行はるる

犯罪事実がある。それは、私通、姦通の類である。

赤字は筆者

と指摘している。

 

大阪市が指摘する理由は、朝鮮人間の男女バランスの歪みである。
基本的に来訪する朝鮮人は男性の…それも比較的若い男性が多かった。

つまり朝鮮人間では女性の数が極端に少ないのだ

 

上記調査によると
朝鮮人は男性が74,605人、女性が11,011人となっている。
つまり男女比は7:1となる。

また都道府県別では和歌山県、兵庫県、岐阜県、愛知県などは朝鮮人女性の方が多いが、
これらはみな女工として働いている。故に寄宿舎生活をしており、通常男性に接しない。

それ故、朝鮮人男性にとって数字より女性が不足しているのだ。

当然トラブルも多くなる

この大阪市の調査員も調査の過程で聞いた話として

より有力なる仲間の為めに、妻を犯され、或は、奪はれて、相手が有力者であるてふ事実

の為めに、泣寝入りしたといふ物語りは、調査中、幾度か耳にしたところである。

 と記している。 
「在日朝鮮人関係資料集成(1)」P393より

 

もちろんこれは朝鮮人同士の話で、日本人女性が対象になることはほとんどなかった。
しかし日本人はそのような状況を知らなかったのだろうか?

大阪市の調査はその点は指摘していない。しかし噂で広まっていた可能性はある。
むしろこの手の話は広がりやすいのではないか?
 

それ故、行政機関が停止するという震災パニックの中で、
「朝鮮人が婦女暴行をしている」という流言飛語が広がった時に
「さもありなん」と思ったのだろう。
 少なくともそういう可能性があるのではないか?
 ただしこの考えは筆者の推測が入っていることを断っておく。

 

 

先に書いたように当時の日本人の中には朝鮮人に暴力的なイメージがあった。
そのような中で朝鮮人に対する恐怖心を決定付ける事件が発生する。
それが東京市電運転手連続殺傷事件。通称「李判能事件」だ。
事件が起きたのは関東大震災の2年前である。



 「関東大震災における朝鮮人虐殺が起きた朝鮮人側の要因(2)」に続く


関東大震災における朝鮮人虐殺が起きた朝鮮人側の要因(2)


関東大震災の2年前に起こった事件

日本人16人を死傷させた朝鮮人 李判能事件

 

<ポイント>

・関東大震災時の朝鮮人虐殺のキッカケ

・李判能事件を知っているか?

・日本人16人を殺傷した朝鮮人

 

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関東大震災の朝鮮人虐殺のキッカケ
東京市電運転手連続殺傷事件(李判能事件)

 通常、筆者は朝鮮半島出身者を「コリアン」という言葉で記載する。
  ただし今回は「朝鮮人虐殺」がほとんど固有名詞になっているので、
  煩雑さを避けるために「朝鮮人」で統一する。もちろんそこには差別的意図はない




 「関東大震災における朝鮮人虐殺が起きた朝鮮人側の要因(1)」はこちら



 

李判能事件!

 実は関東大震災の2年前、1921年には
日本人をして、朝鮮人を恐怖する事件が2件あった。

 一つは「閔元植暗殺事件(1921年2月15日)」だ。

 閔元植は朝鮮人の政治家であった。
 彼は日本の統治に協力しつつも日本側に自治権と参政権を要求するような人物だった。

 しかし独立運動家からは親日派と目されていた。

 そのため東京駅のステーションホテルに逗留している際に、
 独立派の朝鮮人からのテロにあって殺害された。


 

 そしてもう一つが「東京市電運転手連続殺傷事件(李判能事件:1921年6月3日)だ。

 

 関東大震災が起きた時の警視総監は赤池濃であったが、
 彼によると朝鮮人虐殺が起きた背景として、この李判能事件があるという

  東京人は李判能が卒然凶器を揮て十六人を惨殺せることを想起する。
之が為めに朝鮮人と云へば無性に恐怖するのである。

 ※「現代史資料6 関東大震災と朝鮮人」 P10より

 

(東京人は)朝鮮人と云えば無性に恐怖する」

 

 この李判能事件をもって、東京人(日本人)は朝鮮人に恐怖を感じていたと、
当時の警視総監は証言している。

 李判能事件は、朝鮮人李判能が凶器をもって、17人を死傷させた事件である。

  日本人16人李判能の妻(朝鮮人)の1人を合わせて17人が犠牲になった。
 それ故に、上記赤池濃の発言には朝鮮人被害者は入ってなかったと思われる。

 

 

 

 では東京市電運転手連続殺傷事件(李判能事件)とはどういう事件か?

 

 1921年6月3日午前0時10分ごろ、東京市電の運転手をしている朝鮮人李判能(35)が突然、同居していた日本人家族4人(夫32、妻30、長男9、次男5)を金鎚と短刀で惨殺した。

 

 李はそれだけでは納まらず、会社の上司宅に行き、上司を殺害することを決意。それを自分の妻に止められたことから、妻(27)を金鎚で頭部を叩き、短刀で刺した。

 

 上司宅に向かう途中に、通行人(43)を襲い、大けがをさせた。

 さらに上司宅では上司と妻(37)を惨殺、一緒にいた次男(6)、三男(3)も殺し、長男(10)は大けがをした。

 

 その後一時自宅へ引き返した。

 自宅では瀕死の重傷を負っていた自分の妻を再度刺し、「まだ殺す奴がいる」と再び飛び出し、その途中で通行中のS(52)とM(19)を襲撃して重傷を負わせた。

 この時の「殺す奴」とは結局不明である。

 

 Mは驚いて、近くの自宅に逃げ込んだが、李はこれを追ってM家に乱入、父親(58)が取り押さえようとすると、父親を殴りつけ重傷を負わせて家から飛び出した。

 

 その後も通行中の2名に重傷を負わせるなど凶行は続いた。

 

 この事件を聞きつけた警察官が駆け付けると、李は慌てて逃げだした。そして警察官が追いかけるが、もう少しというところで市電の線路に足をとられて転倒をした。したたか腰を打って立ち上がれないのを見ると、李は戻ってきて警察官を襲撃した。

 

 李は警察官の頭部をめがけて金鎚を振り下ろしたが、警察官は頭を避け、肩に一撃を喰らった。肩甲骨を砕かれながらも警察官は李を投げ飛ばし、立ち上がると抜刀して「手向かうと切り殺すぞ」と叫ぶと、李は気迫に押されて、凶器を捨てて御用となった。

 

 これが李判能事件のあらましである

 

 

 

 

なぜ事件は起きたのか?

 ところでこのような凶行に及んだ李判能はどのような精神状態だったのか。
李の行動から正常ではないと思われたが、彼は正常であった

 現在のような精神鑑定はもちろん行われなかったが、裁判中も何らおかしなところはなかった。

 

 先程書いたように李は市電の運転手だった。そして殺された日本人も職場の同僚だった。この2人が同居したキッカケは、家賃が高かったために、同居して分担するためだった。お互いに一つ屋根の下で生活することで、生活費を節約しようということになった。

 

元々住んでいたのは李で、日本人家族は李に誘われて同居している。同居を始めたのは事件の2ヶ月前からだ。もちろんお互いに顔見知りであるし、仕事関係とはいえ付き合いもある。このような理由から、職場関係としては元々朝鮮人の李と殺された日本人の間では問題は無かったようだ。

 

 しかし家族同士で住みつくと、色々なトラブルが起きた。特に民族が違う2家族が同じ屋根の下で暮らすと問題も大きくなった。

 最初関係が悪化したのは妻同士だった。
共同生活が始まって1ヶ月もたつと些細なことから反目し、トラブルも続出した。

 

 そして事件のキッカケとなる事柄が起きる。

 5月29日、李の妻が、「手拭いが無くなった」と言い出したのだ。それもあたかも日本人妻が盗んだような口ぶりでわめきだしたのだ。

 日本人妻も黙っておらず、言い合って喧嘩となり、双方ともに口汚く罵り合った。ついに両方の夫が大立ち回りを演じるほどになった。

 

 この時は近所の人が仲裁に入り、何とか納まったが、翌日もその次も言い合いを続け、
31日には李が同僚を泥棒呼ばわりするようになった。そこでまた立ち回ったことで、李は同僚を警察に訴えた。容疑は窃盗と傷害である。

 

しかし警察が調べたところ李の傷害の申告場所に外傷が無かった。そのため警察は李に傷害事件としては立件ができない旨伝えた。なおかつ手拭いの窃盗も確たる証拠がない。それに古手拭い一本で家宅捜索をする訳にもいかず、結局、李をなだめて帰した。

 

それに対して李は「俺が朝鮮人だから、警察は日本人の肩を持った」と逆恨みをした。そして復讐することを考えた。

一方このことを伝え聞いた市電の職場上司は関係を仲裁しようと動いた。両者を仲直りさせるべく6月2日の夜に2人を呼んで説諭した上、酒を3人で飲んでケリをつけた。

 ハズだった!

しかし李判能はそう考えていなかった

 

その夜に自宅に帰った李は冷酒を飲みながら、だんだん腹を立てていた。妻の酌で飲んでいた李。酔いが回るに従って興奮していった彼は、感情が高ぶるのを抑えられなくなっていった。そして金鎚と短刀を持ち出して、妻が止めるのも聞かずに隣室に飛び込んで日本人家族を襲撃したのだった。

 

キッカケになったのは古手拭い一本。しかし同居して2ヶ月でそこまで関係が悪化するとは信じがたい。

 

裁判で李判能はこう言っている。

 

「内地人は皆自分達を馬鹿にしている。頼りに思う警察までも、訴えても受け付けなかった。自分たち朝鮮人は、この世では誰にも頼ることができない。地獄に行って仏に頼るより仕方がない。この期に及んでは恨みになる奴を殺して、自分も死ぬつもりだった。」

 

と声を震わして号泣した。

 

 

李は酒を飲んで発作的に犯行をしたのではなく、犯行をするために酒を飲んだことを裁判で認めた。つまり確信犯だったのだ。

 

因みにこれだけの犯罪を実行した李判能は、裁判では死刑ではなく、無期懲役になった。身勝手な理由で職場の同僚を逆恨みし、罪のない子供まで惨殺し、さらに見ず知らずの通行人までも襲撃してけがをさせた李に対して、当時は死刑にならなかったのだ。

 

 

 

 

知られていない李判能事件!

 この事件の影響は警視総監赤池濃によると絶大だったようだ。これにより、朝鮮人への恐怖が日本人に植え付けられた。

 

先に書いた、朝鮮人が急激に増加していること、その朝鮮人の犯罪者数が多かった(但し窃盗が多い)こと、さらに定住せず移動が多く、日本人とのコミュニケーションが少なかったことなどが重なり、得体のしれないというイメージが蔓延した。元々暴力的なイメージがあった朝鮮人に対して、この李判能事件がダメ押しになった。

この事件は当時の豊多摩郡で起きた。豊多摩郡とは現在の東京都渋谷区や新宿区、杉並区などにあたる場所で、そういう意味では東京近辺に住む人に大いなるショックを与えた。

 

筆者は李判能事件をもって、「関東大震災における朝鮮人虐殺」を肯定しようとも正当化しようとも思わない。しかし朝鮮人虐殺のキッカケの一つになったとは思う。

そしてより重要なことはこのような事件があったことを
ほとんどの日本人は知らない

これはメディアに大きな責任があるといわざるを得ない。

 

そしてこの事件(およびその他のテロ事件等)を知らないが故に、結局、朝鮮人虐殺事件が起きた背景や当時の日本人の恐怖心が理解できないだろう。
 ましてや巨大地震により、突然行政機関が無くなり、治安が維持できなくなった時、
当時の日本人がどのような気持ちだったのかを理解することはできない。

 

当時の日本人(東京人)朝鮮人に恐怖していた

その時に行政機関(警察など)が麻痺すれば、頼るものはなかった。
それ故に過剰に反応したとは考えられないだろうか?

 

 

戦後の日本では戦前の否定をすることが正しかった。つまり理由はともあれ、
「日本が悪かった」ということだけを言っていれば良かった。

 

それ故に特に知識人などは当時の被害者?である朝鮮人や中国人を「過度に持ち上げる癖」がある。日韓や日中で歴史問題が起きた時に、積極的に日本否定をする風潮がある。

 

李判能事件を取り上げることは朝鮮人への批判につながり、ひいては「日本が悪い」という戦後日本の風潮に逆行する報道となる。それはむしろ積極的に「日本が悪い」という報道を続けてきたマスメディアにとって都合が悪いのだろう。

 

左翼にとって日本を否定すること、それが正しいのだ!

 

 

しかしそれは韓国や中国への迎合する心理を生む。とにかく日本を否定して、中韓を持ち上げればいい、という安易な考えになる。この両者がトラブルになると、日本を否定し、韓国や中国に迎合する報道が続くのはその一環である。

これこそが一般的に反日と言われるものではないのか?

 その一例として最近の原発処理水の海洋放出への対応をみればわかる。

歴史の学ぶためには、正しい事実を知らなければならない。しかし「日本下げ」を企図している人は、日本を殊更否定する“事実”のみを繰り返し提示して、そうじゃない事実(例えば李判能事件のような朝鮮人にとって都合の悪い)には目を瞑るのだ。

 

 

このような報道を続けていれば、多くの人たちが知識人やメディアに対する不信感を持つだろう。それは自身たちの信用を無くす自殺行為に繋がる。

 

今回、多くのメディアや知識人らが「朝鮮人虐殺」を取り上げていたが、
筆者が見る限り、李判能事件に言及したものはなかった。
そして朝鮮人側の要因を指摘しているものもなかった。

それは結局、歴史を直視し、教訓を学ぶことにはならないだろう。

 

 

 

  「関東大震災における朝鮮人虐殺が起きた朝鮮人側の要因(1)」はこちら

 

 

(マスコミが報道しない真実)なぜ戦前のコリアンは日本の河原に住んでいたのか?

 

 

なぜ戦前のコリアンは河原に住んでいたのか?

その理由は家を借りられなかったから。

それではなぜ家を借りられなかったのか?

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

筆者は昔、朝日新聞のエース記者のファンでした。
 そんなお花畑が、目覚める
キッカケとは?



 

 

河原に住んでいた戦前のコリアン

 

筆者はもう生まれてから半世紀になる。しかし当然戦前のことは知らない。

しかし筆者の両親は年齢的に戦前のことを知っている。

 

特に筆者の父は東京生まれであり、子供の頃から東京に住んでいる。
また多摩川周辺でアルバイトの経験もあり、当時の多摩川のことを話してくれた。

 

 その父が良く話してくれたのは

当時の多摩川には、朝鮮人がバラックを立てて住んでいた。


  ということだった。

  

 

 この話は昔から話してくれたのだが、当時はほとんど興味もなかった。

 しかし戦後に編集された在日朝鮮人に関係する資料を読んでいる時に、
その父の言っていたことを思い出した。

 

 

 河原に住んでいたコリアン

 

 実は彼らが河原で住んでいたのには理由がある。
それは戦前の日本人とコリアンの間の、大きな問題が横たわっていた。

 

 

以下の資料は言及しない限り、朴慶植(パクキョンシク)編集の

「在日朝鮮人関係資料集成」より抜粋した資料である。

以下赤字は筆者

 

 

 

 

 

なぜ河原に住んでいたのか?

 

 ところで戦前のコリアンはなぜ河原で住んでいたのだろうか?

 それは簡単な話で、住む場所がかったからだ。

 

 

 ではどうして住む場所が無かったのだろうか?

 

 戦後の我々が考えるに、コリアンは差別されていたので、
住む場所を貸してもらえなかったと思うかもしれない。

 

 事実、当時の朝鮮人もこう言っている。

 一視同仁とか、何とか、いって表面は実に結構ですが、
一般人の間に、朝鮮人が同一人格視されて居ないてふ事は、
内地人が朝鮮人労働者に家を貸して呉れない一事によっても明らかである。

 

 と述べている。

 大正13年 大阪市社会部調査課 朝鮮人労働問題

 「在日朝鮮人関係資料集成第1巻 P380より抜粋

 

 

 

 このようにコリアン側からは「日本人が差別して家を貸してくれない」と思っていたようだ。
事実、そのようなケースもあり、「朝鮮人には家を貸したくない」という証言もある。

 

では日本人側はどうしてコリアンには家を貸さなかったのだろうか?
本当に差別心から家を貸さなかったのだろうか?

 

 

 

 

 

日本人が家を貸さない理由!

 

 日本人がコリアンに家を貸さなかったのは事実だが、それには理由がある。
例えば大正15年12月、警保局保安課の資料「在留朝鮮人の状況」の
P208には以下のように書いてある。

 

 朝鮮人ノ借家紛議

 在留朝鮮人ノ借家紛議ハ大正十三年始メテ大阪市ニ於テ発生シテヨリ漸次多キヲ加ヘ 

 

 

 このように日本人とコリアンの間で、大正13年ごろから大阪で、借家問題が起こっていた
つまり家の貸し借りの問題である。

 

 その理由はコリアンの経済的困窮があるが、それはものの一面であり、
他にも大きな理由があった。

 それが先の文章の後半に書いてある。

 

 一面朝鮮人ハ既ニ内地人ト民情風俗ヲ異ニシ又日常生活ハ
不潔無節制ニシテ家屋を汚損スルコト甚シク且多数雑居シ喧騒スル性癖アル等
近隣ノ反感ヲ買フコト多キニ基クモノノ如ク、自然一般家主ニ於テモ
朝鮮人ニ家屋貸与スルヲ嫌忌スルニ至リ、 ~略~

 

 

 このように当時の朝鮮人は日本人から家を借りても

 ・不潔に使い、家屋を毀損させる

 ・大勢で雑居して、大騒ぎする。

  

 といった傾向があり、それ故に日本人は朝鮮人に課さないようになっていったのだ。

 

 

 

 

 

立退料に味をしめる!

 

 このような状況から内地人はコリアンに家を貸さなくなったが、
それに対してコリアンは「日本人名義で」家を借りようとする。
その名義貸しをする日本人も現れたのだ。

 

 そのような場合は、相手がコリアンと分かると、日本人は契約を解除して明渡しを要求するが、
その際に「立ち退き料を請求するケース」もある。

 

 家主ニシテ朝鮮人ナリト判明スルヤ直ニ家屋ノ明渡ヲ要求スルヲ以テ
朝鮮人ハ之ニ対シ常ニ不当ノ立退料ヲ要求シ有利ニ解決スルコト多キカ為メ
益々紛議ヲ馴致スルノ傾向アリ。

 

 

 さらにその立退料を要求する傾向は強まっている。

 

 然ルニ本年ニ入リ大阪市ニ於テハ斯ル趨勢ヲ奇貨トシ
不良分子等ハ之ニ介在シテ事案ヲ一層紛糾セシムルノミナラス
立退料領得ノ目的ヲ以テ詐欺的借家ヲ為スモノ続出スルニ至レリ。

 

 

 このように「立退料目的で」家を借りるコリアンも出てきている。

 

 

 

 戦前の日本に渡って来たコリアンは、日本の状況に不慣れな面もあっただろう。
それ故に日本人とコリアンの間での意思疎通がうまくいかないケースもみられる。

 

 ただしこのような借り家に関する問題は特に大阪や東京などでは頻発しており、
借家問題として社会問題化していた。

 

 

 そうしてコリアン相手に家を貸すと、

 ・金を払わない

 ・家を汚く使われて、家屋が汚損する

 ・集団で住んで、騒ぎを起こす

 

 といったことが見られ、日本人は家を貸すのを敬遠するようになった。
大阪のケースでは一部家主が同盟を作って、「朝鮮人には家を貸さない」と
いった決議までしているところもあった。

 

 

 

 

 

また貸しする!

 

 これ以外にも問題になっていたのは、また貸しのケースである。

 コリアンは日本人から家を借りると、それを元に下宿屋を開業するケースがあった。
もちろん契約違反である


 しかし契約観念が薄い当時の(現在でもそうだが)コリアンは
下宿屋をやって金儲けをする。

 

 大正13年の大阪市社会部調査課作成の「朝鮮人労働者問題」によると、

 来住朝鮮人労働者の中でも、唯、単に家を借り得たてふ一事で、成金になった
といふ話もある位である。即ち家を借り得たものは、早速下宿屋をやる。
さうすると千客万来で、下宿人が増えるといったようなものであったのである。

 

 

 というように、勝手に借りた家で、下宿屋を開業して大儲けする者もあらわれた。
先に書いたように、当時のコリアンに関しては家を貸してくれる人が少なかった

 それ故に家を借りたコリアンが、下宿をやってまた貸しをすると、
それだけで大儲けできたのである。

 

 

 

 

 

大勢で雑居!

 

 ところで先に書いたように、コリアンは家を借りると、大勢で雑居する傾向がある。
そして大勢集まることで、騒ぎを起こし、周辺に迷惑をかける。

 

 ところでどの程度の混雑度合いかというと、
大正13年の大阪市の調査だと、一戸当たり17人強で生活している。

 また畳に換算すると、1畳当たり2.17人となる。

 

 1畳に2人以上生活しているとは、まさに雑居というに相応しい。
このような状態が少なくとも大阪では行われていたのだ。

 


 このような雑居をしたうえで、どのような状態だったのかというと、
これはもう少し後年の大阪市の調査
「1930年 本市に於ける朝鮮人住居問題」によると、

 

家賃の支払いはおろか雨戸、襖、天井板などまでも
燃料として焚く乱暴さを平気でやってゐる。
その上一般に文化的意識の低い彼等は
殆んど例外なく家屋の清潔に対する感受性を持たないために
彼等の家屋は常に不潔な雰囲気内に放任され、
朝鮮人街といへば不衛生地帯なる悪感を想ひ起こさす風がある。

 

 

というような状況だった。

 

  

 

 

 このようなことが重なって、河原で生活するまでになったのである。

 

 例えば1934年(昭和9年)の内務省警保局の「社会運動の状況」によると、
「土地立退紛議」の項で、

 

 鮮人の借家難に照応して、最近都市に於ける公私有の空地
「バラック」を建設居住するもの漸次其数を増加しつつあり、

 

 

 とあって、彼らの借家難が公私有地へのバラック建設につながっていることを示唆している。

 これらはコリアンが借りた家を粗末に扱うことから家主が敬遠した結果である。

 

 

また家主とトラブルになった場合、
大勢を集めて執拗に家主に対して、圧力を開けることもあった。

 

一度紛争議の発生するに於ては不良分子等介在し、執拗に家主に対抗し、
立退料を要求するを常とす。

 

 

さらに、元々家賃の支払い意志の全くないケースがあり、
それどころか立退料目的で契約するケースもある。

 

而して之が解決条件は比較的鮮人側に有利に展開しつつあるを以て
不良鮮人等は当初より家賃支払の意思なく、甚だしきは立退料取得の目的にて借家し、
居住後紛争議手段に愬ふるもの頻出するの傾向あり。

 

 

このような状況の中で、行政においてはコリアンが絡む借家問題を詐欺罪で訴えていた。
なおかつこのような処理を推奨していた。

 

各庁府県に於ては斯る不正手段に基く借家紛争議を絶滅すべく
昭和七年十二月十二日大審院判例(れ)第一四八六号(真実の借家人を秘して
家屋を賃借したる場合と詐欺罪)其他借家紛争に関する刑事判決例に基き、
詐欺、住居侵入、恐喝、横領等の各種犯罪事件として処理しつつあり

 

 

このようにコリアンとの間では、家の貸し借りを通して、多くのトラブルが発生しており、
それ故に日本人はコリアンへの家の貸し出しに消極的になった。
 そのため住宅難になったコリアンは、空地(実際には空地ではなく、所有者は存在する)や
河原にバラックを建てて生活することとなった。

 

 

 

 筆者はコリアンの傾向に、何でも「他人のせいにする」というのがあると思う。
これは韓国で尊敬されている独立運動家の安昌浩(アンチャンホ)が述べた言葉である。

 

 彼はコリアンには2つの悪い癖があり、
1つは「嘘をつくこと」、もう1つは「他人のせいにすること」と言った。

 

 

 この戦前の借家問題を見るに、何でも人のせいにするという傾向が色濃く見える。
日本人も最初から家を貸さない訳ではなかった

しかし家を汚く使われたり、大勢で住み着いて大騒ぎしたり、金を払わなかったり、
挙句の果てに立ち退き料を請求したりすれば、敬遠されても仕方がないだろう。

 

コリアンが住宅難になったのも、彼らが家を粗末に扱ったからだ。
彼らが粗末に扱わず、他の方と同様にちゃんとしていれば、
コリアンへの借家問題などは起きなかったのだ。

 

 

戦前のコリアンの借家問題

これはコリアンの自業自得である。

 

 

 

筆者は昔、朝日新聞のエース記者のファンでした。
 そんなお花畑が、目覚める
キッカケとは?


(関東大震災の2年前)日本人17人を死傷させた朝鮮人 東京市電運転手連続殺傷事件(李判能事件)

 

※文字の強調および赤字は筆者

※旧仮名遣いは現代仮名遣いに修正する場合がある。

※記事の縦書きは横書きに変換している。

※長い文章は見やすくするため、適宜句読点を加え、改行している。

※見やすくするため、漢数字を算用数字に変更する場合がある。

※個人名については伏せ字にする場合がある。

 

 

 

 

関東大震災の2年前に起こった事件

日本人17人を死傷させた朝鮮人 李判能事件

 

<ポイント>

・関東大震災時の朝鮮人虐殺のキッカケ

・李判能事件を知っているか?

・日本人17人を死傷した朝鮮人
別名「東京市電運転手連続殺傷事件」
事件の被害者は「16人」と書かれることが多いが、
 数えると「17人」なのでそのように表記する。


文字数:4,995文字

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

関東大震災の朝鮮人虐殺のキッカケ「李判能事件」

 

1923年9月1日 東京を巨大地震が襲った。関東大震災である。
この地震では多くの被害が出たが、それにもまして恐ろしかったのは
行政機関が一時的にマヒしたことだ。

そのため治安が一時的に乱れることになった。

 

この時に起きたのが朝鮮人虐殺である。

 

これは治安秩序が乱れた中で、「朝鮮人が犯罪行為をしている」という噂が立ち、
それに対して民衆が作った自警団が暴走して、朝鮮人を殺害したという事件だ。

 

この被害者について韓国方面からは約6千人が殺されたという説があるが、
これは多すぎるだろう。
 しかし数百人規模にはなるというのが実情のようだ。

 

巷ではこの朝鮮人虐殺はデマであるという説もあるが、
これは反日メディアだけではなく、当時の資料にも、目撃者の証言にも書いてある、
間違いのない事実である

韓国側が約6千人の被害者というのと同様に、
虐殺自体が無かったというのは悪質なデマとしか言いようがない。

 

 

しかしこの事件を巡っては現代においても釈然としないものがある。

 

というのはどうしてこのような事件が起きたのかということを指摘するのではなく、
ただ単に「日本が悪い」という文脈“のみ”で使われているように思うからだ。

 

その証拠に「朝鮮人虐殺」を否定する言説には一部新聞社が社説を使ってまで攻撃するのに、
そのキッカケになったと思われる事件には、ほとんど言及しないからだ。

むしろそういう事件には目を背けようとしているようにさえ思う。

 

そこで今回日本人が朝鮮人に対して警戒するキッカケとなった
17人もの日本人を死傷した事件
李判能事件について記す。

 

 

 

 

 

関東大震災前夜の朝鮮人の状況!

 

 1910年、日本は朝鮮半島を併合した。
これによって日本と朝鮮半島は同じ国となり、
そのため朝鮮人は大挙して来日することになる。

 

現在のアメリカトランプ大統領やEUの極右政党ではないが、
外国人(法的には外国人ではない)が大量に増加することは、
そこに元から住んでいた人に警戒感を引起す。

当時日本で起きていることも同じだった。

 

日本に来日した朝鮮人が急増したことで、日本人の中に警戒感が起こっていた。
その数は関東大震災の直前の10年間で
20(3,635→80,415)にもなる
急増ぶりを示している。

 

<参考:日本国内における在日朝鮮人数>

            (在日朝鮮人数) (増減)

 1913年   3,635人

   14年   3,542人(   ▲93)

   15年   3,917人(   375)

   16年   5,624人( 1,707)

   17年  14,502人( 8,878)

   18年  22,411人( 7,909)

   19年  26,605人( 4,194)

   20年  30,189人( 3,584)

   21年  38,651人( 8,462)

   22年  59,722人(21,071)

   23年  80,415人(20,693)

   24年 118,152人(37,737)

   25年 129,870人(11,718)

   26年 148,015人(18,145) 

 

 

さらに朝鮮人を警戒する2つの理由があった。1つは彼らの犯罪数の多さだ。
もう一つは彼らが定住しなかったことだ。

http://gakku2007.blog.jp/archives/293654.html

 

 

彼らの犯罪数と言っても殺人などではなく、窃盗が多い。
彼らは日本に来ても仕事がないケースもあり、
食うや食わずの身で犯罪に手を染めることもある。

 

それからもう一つの定住者が少ないというのはどういうことかというと、
彼ら朝鮮人は朝鮮半島から日本に来たばかりだった。
そこで良い職場があればすぐに異動する

彼らは定住する場所がまだできていないため、そういうことができるのだが、
日本人からすると、隣に得体のしれない人物が住み着くことになるので、警戒感が高まった。

 

そこで関東大震災の2年前、朝鮮人が起こした犯罪が李判能事件だった。

 

 

 

 

 

李判能事件!

 関東大震災が起きた時の警視総監は赤池濃であったが、
彼によると朝鮮人虐殺が起きた背景として、この李判能事件があるという

  東京人は李判能が卒然兇器を揮て十六人を惨殺せることを想起する。

之が為めに朝鮮人と云えば無性に恐怖するのである。

    

 

 

 この李判能事件は、朝鮮人李判能が凶器をもって、
16人を死傷(8人殺害、8人ケガ)させた事件である。
しかし前記したように、数えると17人を死傷させている。

 

 

 では李判能事件とはどういう事件か?

 

 1921年6月3日午前0時10分ごろ、
市電の運転手をしている朝鮮人李判能(35)が突然、
同居していた日本人家族4人(夫32、妻30、長男9、次男5)を
金鎚と短刀で惨殺した。

 

 李はそれだけでは納まらず、会社の上司宅に行き、上司を殺害することを決意。
それを自分の妻に止められたことから、妻(27)を金鎚で頭部を叩き、短刀で刺した。

 

 上司宅に向かう途中に、通行人(43)を襲い、大けがをさせた。

 さらに上司宅では上司と妻(37)を惨殺、一緒にいた次男(6)、三男(3)も殺し、
長男(10)は大けがをした。

 

 その後一時自宅へ引き返した。

 自宅では瀕死の重傷を負っていた自分の妻を再度刺し、
「まだ殺す奴がある」と再び飛び出し、その途中で通行中のS(52)と
M(19)を襲撃して重傷を負わせた。

 この時の「殺す奴」とは結局不明である。

 

 Mは驚いて、近くの自宅に逃げ込んだが、李はこれを追ってM家に乱入、
父親(58)が取り押さえようとすると、父親を殴りつけ重傷を負わせて家から飛び出した。

 

 その後も通行中の2名に重傷を負わせるなど凶行は続いた。

 

 この事件を聞きつけた警察官が駆け付けると、李は慌てて逃げだした。
そして警察官が追いかけるが、もう少しというところで市電の線路に足をとられて転倒をした。
したたか腰を打って立ち上がれないのを見ると、李は戻ってきて警察官を襲撃した。

 

 李は警察官の頭部をめがけて金鎚を振り下ろしたが、
警察官は頭を避け、肩に一撃を喰らった。肩甲骨を砕かれながらも警察官は李を投げ飛ばし、
立ち上がると抜刀して「手向かうと切り殺すぞ」と叫ぶと、
李は気迫に押されて、凶器を捨てて御用となった。

 

 これが李判能事件のあらましである

 

 

 

 

 

 

なぜ事件は起きたのか?

 

 ところでこのような凶行に及んだ李判能はどのような精神状態だったのか。
李の行動から正常ではないと思われたが、彼は正常であった

 現在のような精神鑑定はもちろん行われなかったが、裁判中も何らおかしなところはなかった。

 

 先程書いたように李は市電の運転手だった。そして殺された日本人も職場の同僚だった
この2人が同居したキッカケは、家賃が高かったために、同居して分担するためだった。
お互いに一つ屋根の下で生活することで、生活費を節約しようということになった。

 

元々住んでいたのは李で、日本人家族は李に誘われて同居している。
同居を始めたのは事件の2か月前からだ。もちろんお互いに顔見知りであるし、
仕事関係とは言え付き合いもある。
このような理由から、職場関係としては元々朝鮮人の李と殺された日本人の間では問題が無かった。

 

 しかし家族同士で住みつくと、色々なトラブルが起きた。
特に民族が違う2家族が同じ屋根の下で暮らすと問題も大きくなった。

 最初関係が悪化したのは妻同士だった。共同生活が始まって1カ月もたつと
些細なことから反目するようになり、トラブルも続出した。

 

 

 そして事件のキッカケとなる事柄が起きる。

 

 5月29日、李の妻が、手拭いが無くなったと言い出したのだ。
それもあたかも日本人妻が盗んだような口ぶりでわめきだしたのだ。

 日本人妻も黙っておらず、言い合って喧嘩となり、双方ともに口汚く罵り合った。
ついに両方の夫が大立ち回りを演じるほどになった。

 

 この時は近所の人が仲裁に入り、何とか納まったが、翌日もその次も言い合いを続け、
31日には李が同僚を泥棒呼ばわりするようになった。
そこでまた立ち回ったことで、李は同僚を警察に告訴した。容疑は窃盗と傷害である。

 

しかし警察が調べたところ李の申告場所に外傷が無かった。
そのため傷害事件としては立件ができない旨伝えた。なおかつ手拭いの窃盗も
確たる証拠がない。
 それに古手拭い一本で家宅捜索をする訳にもいかず、結局、李をなだめて帰した。

 

それに対して李は「俺が朝鮮人だから、警察は日本人の肩を持った」と逆恨みをした。
そして復讐することを考えた。

 

一方このことを伝え聞いた市電の職場上司は関係を仲裁しようと動いた。
両者を仲直りさせるべく6月2日の夜に2人を呼んで説諭した上、
酒を3人で飲んでケリをつけた。

 

ハズだった!

 

 

 

しかし李判能はそう考えていなかった。

 

その夜に自宅に帰った李は冷酒を飲みながら、だんだん腹を立てていた。
妻の酌で飲んでいた李。酔いが回るに従って興奮していった彼は、
感情が高ぶるのを抑えられなくなっていった。
そして金鎚と短刀を持ち出して、妻が止めるのも聞かずに隣室に飛び込んで
日本人家族を襲撃したのだった。

 

 

 

 

キッカケになったのは古手拭い一本。
しかし同居して2カ月でそこまで関係が悪化するとは信じがたい。

 

裁判で李判能はこう言っている。

 

「内地人は皆自分達を馬鹿にしている。頼りに思う警察までも、訴えても受け付けなかった。
自分たち朝鮮人は、この世では誰にも頼ることができない。
地獄に行って仏に頼るより仕方がない。この期に及んでは恨みになる奴を殺して、
自分も死ぬつもりだった。」

 

と声を震わして号泣した。

 

 

李は酒を飲んで発作的に犯行をしたのではなく、
犯行をするために酒を飲んだことを裁判で認めた。つまり確信犯だったのだ。

 

因みにこれだけの犯罪を実行した李判能は、裁判では死刑にならず、無期懲役になった。
身勝手な理由で職場の同僚を逆恨みし、罪のない子供まで惨殺し、
さらに見ず知らずの通行人までも襲撃してけがをさせた李に対しても、
当時は死刑にならなかったのだ。

 

 

 

 

知られていない李判能事件!

 

 この事件の影響は警視総監赤池濃によると絶大だったようだ。
これにより、朝鮮人への恐怖が日本人に植え付けられた。

 

先に書いた、朝鮮人が急激に増加していること、
その朝鮮人の犯罪数が多かった(但し窃盗が多い)こと、さらに定住せず移動が多く、
日本人とのコミュニケーションが少なかったことなどが重なり、
得体のしれないというイメージが蔓延し、この事件がダメ押しになった。

 

この事件は当時の豊多摩郡で起きた。豊多摩郡とは現在の東京都渋谷区や新宿区、
杉並区などにあたる場所で、そういう意味では東京近辺に住む人に大いなるショックを与えた。

 

 

筆者は李判能事件をもって、「関東大震災における朝鮮人虐殺」を
肯定しようとも正当化しようとも思わない
しかしこのような事件があったことを
ほとんどの日本人は知らない

 

それでは結局、朝鮮人虐殺事件が起きた背景や当時の日本人の恐怖心が理解できないだろう。
ましてや巨大地震により、突然行政機関が無くなり、治安が維持できなくなった時、
当時の日本人がどのような気持ちだったのかを理解することはできない。

 

 

戦後の日本では戦前の否定をすることが正しかった。
つまり理由はともあれ、「日本が悪かった」ということだけを言っていれば良かった。

 

それ故に当時の被害者?である朝鮮人や中国人を「過度に持ち上げる癖」がある。
日韓や日中で歴史問題が起きた時に、積極的に日本否定をする風潮がある。

 

李判能事件を取り上げることは朝鮮人への批判につながり、
ひいては「日本が悪い」という戦後日本の風潮に逆行する報道となる。
それはむしろ積極的に「日本が悪い」という報道を続けてきた
マスメディアにとって都合が悪いからなのかもしれない。

 

日本を否定すること、それが正しいのだ!

 

 

しかしそれは韓国や中国への迎合する心理を生む。
とにかく日本を否定して、中韓を持ち上げればいい、という安易な考えになる。
この両者がトラブルになると、日本を否定し、韓国や中国に迎合する報道が続くのはその一環である。

これこそが一般的に反日と言われるものではないのか?

 

歴史の学ぶためには、正しい事実を知らなければならない。
しかし「日本下げ」を企図している人は、
日本を殊更否定する“事実”のみを繰り返し提示して、
そうじゃない事実(例えば李判能事件のようなコリアンにとって都合の悪い)
には目を瞑るのだ。

 

 

これが多くの人たちに、メディアに対する不信感を持たれる所以であろう。
そしてネットに対して真実性を持たれる理由であろう。

 

「マスコミは偏向している。頼れるのはネットだけだ」

こういう意見が真実性をもって理解されるのは、マスコミ自身の責任である。

 

 

 

大分県光岡村での不倫および詐欺事件

 

 

大分県光岡村で起きた事件

日本人妻と朝鮮人男性の不倫

朝鮮人男性は、結局金目当てだった。

―――――――――――――――――――――――――――――

 

 

筆者は昔、朝日新聞のエース記者のファンでした。
 そんなお花畑が、目覚める
キッカケとは?

 

 

 

 現在日韓関係は最悪の状況になっている。

 その理由は韓国側にあるというのが筆者の見解だが、他方日本側にも問題がある。

それは韓国側の反日行動に対して、これまで擁護してきた面があったということだ。

 

 その擁護には積極的に擁護する意見もあったが、むしろそういう意見は少数派であり、
大多数の擁護とは
黙認によるものである。

 

 つまり韓国側の反日行為に対して、「何も言わない」ということだ。

 

これは日本側の贖罪意識が影響しており、それは自虐的な教育によって生み出されている。
そしてそれは戦前のことを教えない教育界、またマスコミの行動によって引き起こされている

 

 

以前、筆者は戦前のコリアンの猟奇的犯罪である李判能事件について書いた。
これはのちに関東大震災時の日本人による過剰な朝鮮人虐殺の
キッカケになった事件であるが、ほとんどの人はこの事件を知らなかった。

 

これはマスコミおよび教育界の怠慢というものである。

 

しかしそのことを嘆いていても始まらない。そこで筆者はその反省に立ち、
戦前のコリアンの犯罪行為およびその他の行動を事実として提示する。

 

この事実をご覧いただき、
そして日本人としての贖罪意識を解消する一助となれば幸いである。

 

 

現在からは差別的な表現がありますが、時代上そのままの表記とします。

犯罪者の個人名については伏字とします。

長い文章については適宜、句読点を補い、読みやすくしました。

旧字については現代風に直している場合があります。
赤字は筆者

 

 

 

不倫の上、家庭崩壊!

・日 時  昭和十四年八月

・場 所  大分県光岡村

・事 件  不倫事件 その後、詐欺事件

・概 要  以下

 

 本籍:忠清北道、住所:大分県光岡村 ○○(筆者注:朝鮮人名)
当三十四年は妻子を有し古物買出を為し居る者なるが、
客年十月同郡立馬村より出征せる某が戦死し、其の妻某女当二十八年は
子女二人と生活し、居るを知り、之を誘惑せんと意図し
本年六月頃より商売に言寄、頻りに同家に出入し、
遂に甘言を弄し同女を籠絡し関係を結ぶに至るや、爾来数回に亘り、
同女より計金九十円余を提供せしめ、借用名義を以て之を費消し居りたり。

 

 

 而して其の間同女が戦死者遺族たるの面目を覚り絶交を申込むと、
絶交せば自殺する等と称し、引続き不倫関係を継続し居りたり。
右事実を探知せる大分県に於ては本名に対し、厳重訓戒を加へたる処、
本名は其の非を悟り、絶交するに至りたり

 

 

参考:在日朝鮮人関係資料集成第4巻 P350

赤字は筆者

 

 

コメント

 実は戦争中に大きな社会問題となっていたのは、出征兵家族の留守宅の問題だった。

 多くの日本人男性は兵隊として戦地に行っていたが、
当時の朝鮮人は徴兵の義務が無かった。一部では志願兵があったが、
ほとんどは戦地に行っていなかった。

 

 そこで留守宅の日本人妻と朝鮮人男性の間で、不倫問題が起きていた。

 

 今回のケースも不倫であった。

 

しかし今回のケースはそれほど問題にはならなかった。

確かに金銭の授受こそあったが、それは合意に基づくものであった。
さらに日本軍人妻は「別れる」と言ったが、朝鮮人男性はそれを拒んでいた。

 

しかし結局、別れに犯罪行動は起きなかった。

 

 

だが別れるには軍当局が絡んでいるし、
いずれにせよ身内で円満とはいかなかったようである。

 

 

 

 

筆者は昔、朝日新聞のエース記者のファンでした。
 そんなお花畑が、目覚める
キッカケとは?

 

 

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