沈丁花の「反日は差別なり」

なぜ日韓関係が悪いのか?その原因は韓国の反日にある。 そして反日とは差別であるということを説明します。 その他中国を始めとする国際ネタ。国内政治ネタも少し触れます。 沈丁花(ちんちょうげ)とはブログ主の子供の頃のあだ名です。それ故に決して(じんちょうげ)とは読まないでください。

日本の朝鮮統治が善政だった証拠

沈丁花の名前で動画チャンネルもやっています。
2月17日更新 ぜひご覧ください。

日本共産党の松竹氏への除名処分は47年前に予言されていた。
「(共産党)松竹氏の除名処分は47年前に予言されていた!」
https://www.youtube.com/watch?v=gaRaQkd_wCY

日本人の知らない事実  韓国で東郷記念碑復元?

 
 
韓国で東郷平八郎の記念碑?
マスコミに言われて結局断念
日本の統治時代は悪くなかった証拠
―――――――――――――――――――――――――――――――
 
 

筆者は昔、朝日新聞のエース記者のファンでした。
 そんなお花畑が、目覚める
キッカケとは?

 
 

 韓国で東郷平八郎の記念碑?
 
 
記念碑好きの韓国!
 韓国というのは記念碑好きだ。何かというと記念碑を作る。
 
 昨今の日韓関係を悪化させていることに、徴用工の問題がある。
 日本統治時代、当時の朝鮮人に対して、徴用が行われた。これは徴兵が施行されていない朝鮮人に対して労働提供を求めるものであり、当時としては合法だった。
 
現在韓国では、これを「強制された」という文脈で説明されているが、それは事実ではない。先に書いたように労働提供を義務化したものであり、当時の日本人は徴兵が義務化されていたのだ。つまり決して強制連行を目的とするものではない。 
 
ましてや朝鮮人はほとんど徴用されておらず、官斡旋や募集がほとんどだった。強制連行など真っ赤な嘘である。
 
 
話が逸れたが、この徴用に対して韓国では徴用工像を作ってアピールしている。それだけではなく、慰安婦像なども作ってたくさん設置している。
 
つまり彼らは記念碑好きなのだ。
 
 
その韓国で東郷平八郎の記念碑を復元する動きがあったことをご存じだろうか?
 
 
 
 
東郷元帥の記念碑!
 
 1982年5月12日 朝日新聞3面に以下の記事が載った。
以下の引用記事も同じ
 
 東郷記念碑の復元は見送り

 日本海海戦のゆかりの地、韓国南部の巨済島で計画されていた明治の連合艦隊司令長官東郷平八郎元帥の記念碑復元が、マスコミの反対などで見送りになった。
  ※赤字は筆者
 


 この記事は「東郷平八郎の記念碑が見送りになった」ことを伝えているが、復元する計画があったことを伝えている。
 

 
 東郷平八郎と言えば、日露戦争の英雄である。日本海海戦ではロシアのバルチック艦隊を撃破。その功績で神社ができるほどであった

 
 
 つまり日本の軍国主義の象徴であり、日本にヒドイ目に遭った韓国では不倶戴天の敵と言えるだろう。
 
 
 その韓国で、韓国人が東郷元帥の記念碑の復元が計画されていた?
 
 しかも1982年に!
 
 
 

 

1982年の日韓関係!
 1982年は激動の年だった。教科書問題があったからだ。

 教科書問題は「中国への侵略を進出と書き換えた」ということから始まった。当初はそれほどでもなかったが、徐々にエスカレートしていった。そこに韓国も加わって大きな騒動となった。
 
 それが起きたのが1982年6月26日の報道がキッカケだった。つまり東郷記念碑の記事の1か月ほど後だ。
 
 
 確かに教科書問題の前であったが、韓国国民の意識は変わらない。たった1ヶ月で意識など変わる訳がない。それなのに日本の軍国主義の権化である東郷平八郎の記念碑を復元しようという動きが当時あったのだ。
 
 
 なんかイメージと違う。
 今なら労働組合が暴動を起こしていただろう()。
 
 
 
 
記念碑復元の不許可!
 この記念碑は日本統治時代に設置されていたものだ。
 日論戦争でバルチック艦隊を迎え撃った際に、連合艦隊の待機場所となった鎮海湾、そこに面している巨済島に設置されていた。
 
 
 しかし日本敗戦後は撤去されており、現地警察の倉庫に保管されていた。2年前にその存在が明らかになり、日韓文化交流協会と地元で復元計画が作られた。
 
 
計画はすぐにまとまり、資金は日本企業から募集することが決まった。そして資金はすぐに集まった。

 資金を出すのは日本企業だが、これは地元も同意している。故に日本人と韓国人が合同で計画を推進したのだ

 
しかし韓国のマスコミが嗅ぎ付けて、それに対する反対の論陣を張ったので、地元を所管する慶尚南道は「計画を許可しない」と決めた。
 
 
しかし記事の中でも行政がマスコミに押される形で断念したように書いてあるが、今とはだいぶ違うニュアンスだ。以下のように書く
 
結局、マスコミに押された形で、行政当局も復元不許可の決定を下した
 
 
 行政が不本意にも、マスコミに押されて不許可にした様が見て取れる。
 
 
 
 
マスコミの言い分!
 ところでその韓国マスコミだが、この論調にも現在では考えられない表現が入っている。それはこのようなものだ。
 
 日本人の気持ちは分かるが、豊臣秀吉の朝鮮侵攻と日帝三十六年の遺恨を持つわれわれには強い抵抗感がある。
 ※赤字は筆者
 
 
 
 日本人の気持ちは分かるが…?
 
 
 分かるのか?
 

これはこういうことだろう。
 
東郷記念碑を復元しようという日本人の気持ちは分かるが…
 
当時の韓国マスコミは、日本人の気持ちを理解してくれている。現在では絶対ありえない表現が、当時の韓国の新聞記事には入っている。
 
 
 
これは察するに、当時の韓国では日本時代を知っている人が多くいたからではないか?日本時代を知り、日本の良い部分を理解していたので、このように日本人の気持ちを理解する発言が出てくるのだろう。
 
 
日本の統治時代は良い時代だった。
 
少なくとも現在言われているような、過酷な支配などは微塵もなかった。それ故に終戦間際でも反乱が起きなかったのだ。
 
 
日本の統治時代は良い時代だった。
東郷記念碑の復元を試みた、当時の韓国人こそがそれを証明している。
 
 
 

 

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17年ぶりのソウル 1962年の記者による韓国報告

 

・1962年の朝日新聞の記事
・17年ぶりに韓国に戻った記者の報告

反日的雰囲気は報告されていない。
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 朝鮮半島における日本の統治時代は、朝鮮半島に住んでいる人たちにとって、そんなに悪い時代だったのだろうか
ここでは中学までソウルに住んでいて、終戦時に日本に戻った日本人が、新聞記者になって17年ぶりに訪韓するときの記事を見てみよう。
 
 
ここでは感想等は一切書かず、ただ記事のみを見てもらいたい。ただし反日的な雰囲気が一切書かれていないことを留意して読んでもらいたい。
 
※記事は1962年9月7日 朝日新聞夕刊3面である。
以下は引用である。
 
 

――――<引用開始>――――――――――――――――――――
 
17年ぶりのソウル 
すごい人口密度 姿を消すお社や桜の木 -今“新しい町”へ衣がえの最中―
 
 
 十年ひと昔なら、私にとってはふた昔近いソウルへの訪れである。いや、訪れというよりも「帰ってきた」という方が似合いのようだ。ここで生まれて育ち、そして十七年前の夏、リュック一つで京城の町を離れた一人でもあるからだ。新しい姿を見てはまず驚き、古い面影を見つけては、無性に昔を懐かしく思う。この驚きと懐かしさが、ごっちゃになったソウルの町を、十七年ぶりにあちこちと歩いた
 
 
 
 
<町>
◇…長い、長い間の目かくしを、いきなり取られたような感じ-これがソウルへ着いた第一印象だった。十七年ぶりのこの町は、ひと回りもふた回りも大きく、新しくなった。主要道路はぐんと広くなり、近代的な高層ビルが散在して、いまソウルは“新しい町”へと衣がえの最中だ。市域も西へ東へと伸びて、丘の頂まで人家がぎっしり。
 
 
ここでまず驚くのが、人間の多いことだ。新宿や池袋ににた人の流れが、ソウルではいたるところで見られる。それもそのはず、人口は二百九十万人だが、人口密度は東京の二倍以上というものすごさだ。
 
 
この人の流れを処理する交通機関も多い。電車に大型バス、小型バス、ジープを改造したタクシー、その中を最近登場した日本製のタクシーが風を切って走っている。バスが二千台、タクシーが三千台、信号を二つ待つことはめったにない。経済活動が活発でないせいか、民間トラックは余程注意しないと目に止らない。日本に比べて、主要道路が清潔で、神風トラックがいないのが大きな救いである。
 
 
 
 
<山と川>
◇…昔の京城をご存じの人なら、南山と漢江は思出の山川でもあろう。この南山の変容は二つ目の驚きだ。雄大さを誇った朝鮮神社のお社はむろんない。それどころか、幼い日、一つ一つ数えてのぼった三百六十五段の石段は一つもない。いま神宮の跡は整地されたままだが、野外音楽堂や国立美術館を建設する計画もある。
 
 
 南山の北側には、ソウルを一目で見渡せるドライブウェーができ、頂上にかけては、ケーブルカーが絶え間なく往復している。漢江は、ソウルの南を流れる韓国最大の川。これも昔よりはるかににぎわい、夏のレジャーを楽しむ人でいっぱいだ。屋形舟、ツリ舟、ボートもあって、水上スキーが白波を立ててすべっている。海水浴場まで一時間余りもかかるソウルでは、漢江がまた大衆の水泳場でもある。水の犠牲者がでるのは日本と変りない。
 
 
 
 
<日本食堂>
◇…次に驚いたのが日本食堂の多いことだ。市内に五、六十店もあるといわれ、各種の和食が日本名とともに残っている。すし、天ぷら、さしみから、どんぶりもの。しかも例外なくみそ汁、たくあん、ならづけ付き。砂糖を余り使いすぎて、どれもうまいとはいえないが、目を見はるのが量の多いことである。
 
 
ある店でエビ天を注文、みみっちくも数えてみたら、小さいながらシバエビが何と二十一匹。これに酢の物、みそ汁、つけもの付きで、日本のお金にして四百円。どんぶりものなら百五十円くらいで、量が多いだけ日本より安いわけだが、韓国のサラリーマンには、ちょっぴりぜいたくな食事である。うどん、ざるそばのたぐいも、名前と形をとどめている。
 
 
和食とともに、日本語も三十歳以上ならどうやら通用する。運転手に下手な韓国語で話しかけると、うまい日本語で聞き返す。軍人さんは初めから日本語、役人もしばらく話していると日本語になってくる。
 
 
 
 
<繁華街と市場>
◇…昔、繁華街で有名な本町は、名前を忠武路と変えたが、にぎわいはせいぜい一丁目くらいまで。いまは明洞と呼ばれる元明治町にお株をとられた。ソウルの銀座ともいわれるこの明洞では、軍事政権以来ご法度だったパチンコが最近復活して、チンジャラの音をひびかせている。一方昔から韓国人の盛場だった鐘路は、いちだんとアカ抜けして新宿の地位にある。
 
 
 市場のスケールの大きさは、もう一つの驚きだ。ナンバー・ワンの東大門市場は、長さ約三百メートルある三階建商店を中心に、その周囲は、イモを洗うような韓国特有の市場風景を描いている。次いで南大門市場は、これまた韓国人の胃袋を想像させるほどの大きさで、日本の公設市場やマーケットは足もとにもおよばない。
 
 
 この点在する市場に押されて、デパートはひっそり閑。市場は大衆のものだが、デパートは中流以上の人がゆくところ。軍事政権以来パッタリと客足が減ったとかで、お客さんより売子の数が多いところも珍しくない。
 
 
 
 
<懐かしさなど>
◇…あまりの変化にびっくりすることもあれば、これがという懐かしさに出くわすときもある。外も内も変りないソウル駅や市庁(元府庁)などの代表的建物もそうだが、母校の京城中学を訪れて聞いた始業終業のサイレンが二十年前と同じ音色で響いていたり、その校庭で、音楽部の生徒が二十年前と同じ場所でケイコをしていたり…。思わず足をとめることが幾たびもあった。長い間忘れていた“思出の箱”を見つけ出したように…
 
 
 ソウルに着いて一カ月余り、むずかしいことは別にして、一番好感がもてたのは愚連隊や与太者がいないこと。土地カンにまかせて、夜どこをどう歩いても、難グセをつけられる心配がないことだ。
 
 
 逆に一番情けなかったこと―あの昌慶苑の桜の大木がほとんど姿を消したことだ。四月ともなれば、日本でも見られないほど、見事な桜のトンネルをつくったすばらしさはもうみられない。樹齢もあったろうが、日本ぎらいの李大統領が、日本の国花を見たくもないと、肥料もやらずに放っておかせたという。花の心を知らぬ不風流さに、ソウルの思出が一つこわされてしまった。
 
――――<引用終了>――――――――――――――――――――



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1951年に韓国を訪問した日本記者。その親日ぶりに驚き!

 
・日本の朝鮮統治は良い時代だった。
1951年の日経記者の韓国訪問
・その親日ぶりに記者は驚いた
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親日だった韓国人!
 
 現在韓国では、親日派とは売国奴と同じ意味です。それは日本統治時代、日本と協力して甘い汁を吸っていた奴らと同様だと思っています。彼ら韓国人は、そんな親日派は日本人と一体となって、韓国人(当時は朝鮮人だが、ややこしいので以下は韓国人に統一します)を搾取していたと言います。
 
 

 ところで筆者はそのことに疑問を持っている。それというのも筆者は日本の朝鮮統治は良い時代だったと思っているからである。
 
 
日本の統治時代はインフラも整備され、経済成長もして生活が豊かになった。日本に搾取されたなどというのはとんでもなく、むしろ日本から朝鮮半島に資金投入がされていたのだ。
さらに学校を作って教育水準が上がり、衛生状態や食料事情も改善したので人口が激増し、平均余命も大幅に増加した。因みに日本統治時代は朝鮮半島では飢饉が無かった。
日本時代の前、100年間では大きな飢饉が4回もあった(小さいものはもっとあった)のに、日本の時代はなかったのだ。
 
 
朝鮮半島は豊かになり、多くの人がその恩恵を受けていたのだ。
 

 
それ故に、日本の統治時代は叛乱がほとんど起きなかった。よく韓国人に言わせると「3.1独立運動」があったというのだが、まともな独立運動はそれくらいしかないのだ。
 
 
事実、朝鮮半島ではごく小規模な独立運動はあったが、大きな独立運動は3.1独立運動しかなかった。それ故に韓国では今でも盛大に祝うのだ。それ以外にないから。
 
 
日本の時代は良い時代だった。故に朝鮮半島で大規模な反乱は起きず、むしろ日本の統治に協力する雰囲気まであった。実際に終戦間際には日本軍は敗退しているが、それでも朝鮮半島では大規模な反乱が起きていない
 
 
しかし戦後はそれでは都合が悪いので、一生懸命反日をするようになった。そして我々は戦前から日本に苦しめられて、日本から搾取されていました。それで一生懸命独立運動をやっていました…という嘘の物語を戦後に吹聴しているのだ。
 
 
少なくとも一般民衆は反日ではなかった
 
それについては以前記事にした。
 
 
 
特に韓国の初代大統領が反日しか能がなかった「李承晩」なので、より反日を煽り、反日に価値を持たせたのだ
 



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ところで1951年に日経新聞の記者が韓国を訪問している。
戦後は記者でもおいそれと韓国に行けなかった。ましてや1951年は朝鮮戦争の最中なので、なおのこと障害があった。
 
 
しかし1951年も中盤になると、朝鮮戦争は38度線で膠着状態になった。もちろんこの後2年間も続くのだが、大きな戦線の変動は見られなくなった。
 
 
そして休戦会談が模索された。その取材のために日本の記者も韓国に赴いたのだ。この時の日経新聞記者の記事がある。それをそのまま引用しよう。
 

 以下の引用は1951年7月24日 日経新聞3面である。
赤字は筆者

――――<引用開始>―――――――――――――――――――――
 
廃墟の街をゆく 韓国人の郷愁
日本映画を慕う“三十代” 読みふける東京の新聞
  
 
【木原本社特派員京城二十二日発】
 韓国人がわれわれ記者に接する場合の言動には日本に対する郷愁とでもいうべきものが感じ取られる。われわれがここへ着いてから会った韓国人はみな温かい態度で日本語で話しかけて来る。六年間も会うことがなかった日本人に久しぶりに会えてうれしいというのである。
 
 
 彼等はみな日本のことを聞きたがりだんだん復興していると聞いて関心の態である。東京から記者の手許へ送られてきた日本の新聞には熱心に読みふける
 
 
 三十代の青年層と話し合ったとき、日本の映画が見たいという声が多かった。終戦後はみな日本映画を見ていないのである。いま見ているのはアメリカものばかりで、やはり日本ものの方が親しみが持てるというわけである
 
 
片岡千恵蔵、大河内伝次郎、高峰三枝子、原節子なんか相変わらずスターとして活躍しているか。田中絹代は米国へ行ったという話を聞いた。佐分利信はもう老けてしまったろう…。などと聴き手の記者はおのずとほほ笑まされるのだった。
 
 
 実のところ記者は初め長いこと朝鮮を支配していた日本にはみな反感をもっているのではないかと思っていた。しかしこれは間違いで多少は例外があるが教育程度の低い者ばかりでなく、インテリ階級でも日本に好意を持っている。青年のなかには日本へ勉強に行きたいという者もある。
 
 
 これにはいろいろ理由があるが、その一つは日本統治時代は生活が現在の戦乱下より安定していたことだと思う。帝国主義的な日本の政策によって甘い汁を吸われたとはいうものの低いながらに生活水準は維持し得ていた。
 
 
 ところがいまでは戦火に追立てられて住むに家なく食うに物ないという状態で過去を懐かしむ気持ちになっているわけである。実際日本の朝鮮に対する帝国主義的支配は感心しないところもあったが、築き上げたものも多かったのである。左翼分子は別として彼らの大多数は今後日本と協力していくことを望んでいる。
  
 
――――<引用終了>――――――――――――――――――――――
 
 
 
 コメントは控えるが、これが1951年当時(終戦から6年後)の韓国民衆の状況だった。
 
 
 


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1962年 ”ギスギス”したフィリピン ”ほのぼの”した韓国

 

1962年のフィリピンと韓国の雰囲気!
・フィリピンは日本船のみを襲撃した。
・韓国ではほのぼのしている。
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日韓関係について、各種レポートを書いています。
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フィリピンと韓国
 
 以前、フィリピンと韓国について比較する記事を書いた。
 
 「なぜフィリピンは反日ではないか?」
 
 「韓国との違い。フィリピンのリーダーシップ」
 
 「フィリピンの戦争未亡人と韓国大統領」
 
 
 
その中で筆者は、フィリピンは国民が反日なのに政治リーダーが抑えたのに対して、韓国は国民が親日なのに、政治リーダー(つまり李承晩)が反日を一生懸命煽ったと書いた。
 
 
つまり韓国は作られた反日であることを指摘した。
  
 
韓国は1954年に反日教育をすること、全小中学校で少なくとも週に1回、反日反共の特別講義を行うことを政府として命令している。
 
 
独裁政権の政府が反日教育を命令しているのだ。
 
 
 これなら韓国が親日になる訳がないのだ。
 
 
 
 
 
 
1962年の雰囲気 フィリピンの場合
 
 ここでフィリピンと韓国の状況を比較してみる。たまたまだが1962年9月に、当時の雰囲気を知る上で参考になる記事が載っていた。1962年とはすでにフィリピンとの国交正常化はなっていた(1956年)が、韓国とはまだ(1965年)の時期だった。
 
 
 1962年9月20日 朝日新聞15面  ※以下赤字は筆者 
日本船に暴行相次ぐ 比国の現地人 海員組合が訴え
 
 
 この記事はフィリピンにおいて、船舶が強盗にあう事件が頻発していることを伝えている。その犯人は現地人で、ピストルや蛮で武装し、船舶に乗り込み、金品を要求するものであった。
 
 


そして日本海員組合の話としてこう伝える。
 
日本海員組合の話  戦争中の悪感情から現地人のこうした事件は日本船に対してだけ行われており、乗組員としては外交折衝による以外に解決の手立てがない。賠償問題も一応解決、平和となっているとき、船員だけが戦争の被害をこうむっているのは、われわれの努力不足もあろうが政府の責任もあるのではないかと考える。
 
 
 
 戦争中の悪感情から、日本船だけ襲撃される。たしかに戦争中には日本兵60万人のうち、50万人が戦死している。日本兵がそれほど被害を受けたのだから、戦場になったフィリピン人はなおのことであろう。
 
 
 事実、第2代大統領のキリノ大統領も妻子3人が日本兵に殺されている。
 
 
 ある面、フィリピンの反日感情は仕方がない面もあるのだ。
 





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1962年の雰囲気 韓国の場合
 
ところで当時の韓国はどうだったのだろうか?
 
実は当時の韓国の雰囲気を知るための記事がある。1962年9月7日の朝日新聞夕刊3面に以下の記事が載った。  ※以下赤字は筆者
17年ぶりのソウル
  

 この記事を書いたのは西村特派員。実は西村氏は戦前のソウルで生まれ、育ってきた人で、終戦の時に日本に引き揚げた経験を持っている。だから17年ぶりとなっているのだ。
  
 彼は17年ぶりのソウルを歩き、過去との比較をしている。その様子はほのぼのとしている。記事を見る限り、全く反日的雰囲気は無い。
 
 
 例えば…日本食堂が結構多いことに触れながら、
 
 和食とともに、日本語も三十歳以上ならどうやら通用する。運転手君に下手な韓国語で話しかけると、うまい日本語で聞き返す。軍人さんは初めから日本語、役人もしばらく話していると日本語になってくる。
 
  
 このように日本語に抵抗ない様子が伺える。大体、日本人から酷い目にあったのなら、日本人をのせて運転しないだろう。
 
  
 そしてこうも書く。
 
 ソウルに着いて一カ月余り、むずかしいことは別にして、一番好感がもてたのは愚連隊や与太者がいないこと。土地カンにまかせて、夜どこをどう歩いても、難クセをつけられる心配がないことだ。
 
  
 当時の日本は学生運動が多く、その流れで暴力学生が多く存在した。それに引き換え韓国は軍事政権である。そんな輩は排除されるのだろう。
 
 
 それを差し置いても日本人が襲撃されたフィリピンとの違いはなんだろう。日本時代を知っている人が、西村記者に難クセつけてもよさそうなのに、まったくそうではない。それどころか西村記者の記事の中に、反日的体験が皆無である。
 

 フィリピン民衆は当時も反日だった。しかし韓国民衆は反日ではなかった。反日教育をすることで、反日国家になっていったのである。
  
 
 暗黒が反日教育を反省しない限り、日韓関係は改善しない。韓国が反日教育をやめ、長年の反日教育に対して、日本に謝罪と賠償しなければ、日韓関係の改善はない
  
 
 ギスギスしたフィリピンとほのぼのした韓国!両者の民衆の対応は対称的である。
 
 


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元朝日新聞記者 若宮啓文氏の不満!

 
 

 
・若宮氏と權氏の対談本を読んだ。
・若宮氏の言動こそが、日韓悪化の大本である。
・必要なのは嫌韓である。
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若宮啓文(わかみや=よしぶみ)という元朝日新聞記者がいる。現在では国立ソウル大学校日本研究所の客員研究員や日本国際交流センターのシニアフェローをやっている。
 
 
 
 
權五琦(クォン=オギ)という人物がいる。韓国の東亜日報の戦後初の日本特派員でのちに社長。金泳三政権では副総理・統一相として南北問題を担当した。
 
 
若宮氏は1948年の戦後生まれなのに対して、權五琦氏は1932年の日本統治時代の生まれである。
 
 
 
この2人が対談をして、それを本にしている。その題名は韓国と日本国である。
 
 
 今回この本を紹介するのはこの本の若宮氏の言動に、日韓関係を悪化する大本があると思われるからである。
 
 
 
 韓国と日本国」はこちら参照!


 
良心的日本人の罪!
 
 以前、若宮啓文氏について書いたことがある。これは「若宮氏の目が節穴である」という主旨で書いた。
 
 「元朝日新聞記者 若宮啓文氏の目は節穴だった!」
 
 
 
そして日本人でありながら、積極的にコリアン等に迎合する日本人を良心的日本人と称して、これらの人々が日韓関係を悪化させてきたことを書いてきた。
 
「良心的日本人の行動原理「面白い(1)」
 
 
「良心的日本人の行動原理「面白い(2)」
 
 
「良心的日本人の行動原理「贖罪意識」」
 
 
 
 
そしてその代表的な人物が若宮啓文氏である。
 
 
 
 
 
日本支配を肯定する韓国人!
 
 ここで若宮氏と權氏のやり取りを見てみよう。 ※以下赤字は筆者
 
 
 日本の政治家の“妄言”が続くことへの議論になり、
 
 
若宮 ~略~ しかし今日まで続くこうした類の発言を見ると、「いいこともした」と強調したがる人の心理には、「悪いことをたくさんした」という意識はあまりなくて、むしろ「いいことをたくさんした」と言いたい気持ちが強くあるように思われます。 ~略~
 

權  「いいこともした」というより「いいことだった」という例を、私の身近なところから紹介しましょうか。 ~略~

  母が生まれたのは慶尚北道の田舎でしたが、そこでも日本によって小学校ができ、男女の区別なく生徒が募集されました。母は小学校に行きたかったんだが、両親は儒教精神にこりかたまっていたから、「女が学校に通うとはなにごとだ」と学校に行くのを許さなかった

 しかし、母は「女も勉強しなければならない」と考えて、毎朝、教科書やノート、筆記用具などを風呂敷に入れて塀の向こうに投げておいて、どこかに遊びに行くふりをして家を出て、そとでその風呂敷を拾って学校に行ったというんです。母は小学校を卒業するときには特待生になって、いまもその賞でもらった辞書「緩和新辞海」がありますよ。この辞書は母の誇りなんだ



若宮 それはとても面白い話ですが、そういう話は日本人からはちょっと言い出しにくいですね。へたすると「妄言」だと言われてしまいますから(笑)。
 

 
 
 
なんで妄言なんだ!事実だろう。どうやら若宮氏は權さんが自分と一緒になって、日本批判をしないのが気に入らないようだが、權氏の母親の事例を見ても、十分日本の統治は良かったと言えるだろう。
 

 
 それに權氏は日本統治時代を「いいことした」ではなく、「いいことだった」と主張しているのだ(赤字は筆者)。むしろ悪いこともあったと思うが、全体的にはいい統治だったのではないか?これは權氏の母親の事例が指摘している。
 
 

 
 
それ以外にもこういうやり取りがある。2001年の「新しい歴史教科書を作る会」の騒動に言及して、
 
權 ~略~ 今回の「新しい歴史教科書(市販本)」は読みましたよ。日本の縄文・弥生時代などは非常に勉強になったし、近代史についても検定の時にかなり修正がなされたようで、特に反発を感じませんでしたね
 

若宮 そうですか。確かに検定後の「新しい歴史教科書」は事実の記述に大きな間違いがあるとは思いませんし、勉強になる事も多々ありますが、事実のとらえ方、取り上げ方は非常にナショナリスティックですよ。明治維新後の日本の歩みを一貫して欧米列強の支配に対する自存の闘いという視点で描いていますからね。そして。それがもたらした過ちを冷静に分析するという視点が乏しい
 
 



 
 
 
良心的日本人の不満!
 
 ここでも若宮氏は不満のようだ。この本が出たのは2004年である。「作る会」の教科書を「反発を感じない」と述べている權氏に対して、「事実のとらえ方」が偏っているとして反発している。
 
 
 
 若宮氏はコリアンに、「日本が悪い」と言ってもらえないことが、大いに不満なのであろう。
 
 
 
 コリアンが怒ってくれないと、その代弁者となって、日本を批判できない。それでは良心的日本人の若宮氏としては面白くないのだ。
 

 
 
 韓国人、特に日本統治時代の1932年に生まれた權氏のような人物に、日本は「こんなに悪かった」「こんなひどい目にあった」と言われ、若宮氏が日本人を代表?して謝罪、返す刀で、日本批判することが「面白く、楽しい」ことなのだ。
 
 
 
 
でも權氏はやってくれないので、面白くないのだ!
 
 
 
 そう…若宮氏のような人は、日本と韓国の仲が良いと困るのである。なぜなら悪口を言ってくれないから。
 
 
 
 こういう人達が日韓関係を悪化させているのだ。
 
 
 
 そうならないためには、韓国に迎合する良心的日本人を批判しなければならない。
 
 
 そして日韓改善の対策はこちらを参照してください。
 
 
 


  韓国と日本国」はこちら参照!
 




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