「夫婦同姓」は最高裁で合憲と判断!

「夫婦別姓」反対の筆者はこれを歓迎する。

「夫婦別姓」は家族に決定的な亀裂を作る。

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筆者は昔、朝日新聞のエース記者のファンでした。
 そんなお花畑が、目覚める
キッカケとは?

 

 

 

 「夫婦別姓」は家族の絆に決定的な亀裂を作る

 

 

最高判決!
 昨日(6月23日)に最高裁大法廷である判決があった。

それは「夫婦別姓は合憲」と判断されたものだった。

夫婦別姓とは夫婦で「違う氏」を認めること。
現状では日本で結婚する場合、夫婦は「同氏」にしなければならない。
しかしそれに異議申し立てをしたのがこの度の裁判だった。

 

ここでいう「夫婦別姓」の「姓」とは「苗字」「氏」「姓」と色々表記する。
法的には「氏」(つまり「夫婦別氏)であり、専門家は「苗字」と使う。
しかし筆者のこの記事ではその点には深入りせず、
「夫婦別姓」との表記以外は全て「氏」と統一して記載する。


ここでいう夫婦別姓は「選択的夫婦別姓」といい、
現行法では夫婦が「同氏」であるものを
希望者だけ「別氏」を認めるというものだ。
これまで通り「同氏」にしたい人は「同氏」のままで良い。
そのため「選択的夫婦別姓」と言われている。

「夫婦別姓」というと「同氏」は認められないかと勘違いする恐れがあるが、
「同氏も認めている」ということを指摘しておく。
しかし煩瑣を避けるため「選択的」を除いて「夫婦別姓」のみの表記とする。

 

今回の裁判は都内3組の事実婚夫婦が

 2018年に夫婦別姓での婚姻届けを出したが、
役所に受理を拒まれた。

そのため婚姻届けの受理を認めるように求め
訴訟を起こしたものである

 

それに対して家裁、高裁と「夫婦別姓は合憲」と判断。
そしてこの度の最高裁でも「合憲」判断となった。

つまり裁判を申し立てた側が敗訴したのだ。

 

日本においては夫婦が同氏になることは法律で決まっている。
民法750条では

「夫婦は婚姻の際に夫または妻の氏を称する」とあり、

また戸籍法74条
「婚姻しようとする者は、左の事項を届書に記載して、
その旨を届け出なければならない」となっており、
その「左の事項」に「夫婦が称する氏」と書いてある。


この法律に対して法の下の平等を記した憲法14条
婚姻に対する両性の平等を記した憲法24条に違反するとして
訴訟に踏み切ったのだった。
 

実はこの手の裁判は2015年に最高裁で争われた。
その当時も「夫婦別姓は合憲」という判断を下された。
そういう意味ではこの判決は6年前を踏襲した
極めて穏当な判断と言えるだろう。

 

 

 

 

夫婦別姓は家族の絆を壊す!

 夫婦別姓に賛成する意見には「個人の尊厳」や「人格」を尊重するものがある。
結婚により「氏」の変更を強制されるのは個人の尊厳を踏みにじる、
また「氏」は結婚するまで20年以上に渡って個人の人格の一部となっていた、
それを否定するのはおかしい。

 このような意見が散見される。

 また名前を変えることによる経済的なコストを考える経済人からも
 夫婦別姓に対する支持がある。


 

 しかしあえて乱暴に賛成論を決めつけると、
 要は個人の「氏」を勝手に変えることはけしからん、
 ということだろう。

 ここでは個人を優先する「人権重視」の考えが根底にある。

 もちろん筆者も「人権」は重要だと思っている。
 だからといって他にデメリットがあるにもかかわらず、
 個人の趣向によって名前を変更することには危惧を感じる。

 ここで筆者の意見を書いておこう。
 筆者は夫婦別姓には反対である!
 その理由は家族の絆が壊れるからだ!

 

 

 

 

政治とは?

 人間は個人として欲望を持っているが、集団じゃないと生きていけない。

個人が孤立して生きていくことは辛いことであり、
そういう人が増えると社会が不安定になる。

 その集団の最小単位が家族である
その家族の絆が揺るがされることを政治はやるべきではない。

政治は家族の絆が強まる方向に誘導すべきなのだ。

 

戦後日本を代表する政治学者に丸山眞男がいる。
 

彼が1952年に書いた論文「政治の世界」の中で、
政治的状況についてこう書いている。

紛争が起り、それが解決され、更にそこから新たに紛争が起り又新たに解決されて行く。政治的状況はこの無限の家庭からなっております。

丸山眞男集第五巻 P134

 

では「紛争」とは何か?
紛争について丸山は、

紛争とは ~略~ 社会的価値の獲得・維持・増大をめぐる争のこと

上記 P1345

として、その社会的価値とは財貨などの経済的価値だけではなく、
知識・尊敬・威信・快適・名声・優越・勢力・権力などの

人々の欲求の対象である限りに於て社会的価値となります。

上記 P135

 

 つまり丸山に言わせると、

政治とは人々の欲求によって起きる紛争を解決すること

と言えるのかもしれない。

 
先に書いたように人間は個人として欲望を持っている。
しかしその欲望をむき出しにしては社会が成り立たない。

 金が欲しいからといって隣の金を盗んだら、社会は成立しない。

 それらを解決するのが政治なのだ。

 そしてその紛争を解決するに際して、
その集団の中でのが必要となる

「絆」とは簡単に言うと仲間意識だろう。
その集団の中でお互いに敬意を持っていて仲間だと思う、
それが絆と言えるのだろう。

他人が求めてもやらないことが、絆のある仲間内なら喜んでやる。

例えば新入社員が最初に営業をやらされても上手く契約はとれない。
しかしそれが親族に頼むと、黙って契約してくれることがある。

その親族は全くの赤の他人が営業に来れば、話も聞かずに追い返すだろう。
このように絆があれば同じことでも対応が違ってくる。

 

 そういう絆があると紛争(トラブル)があっても解決しやすい。
もっというと紛争が起きず、未然に防げるかもしれない。

 だから社会の最小単位であり、個人が最も心安らぐ集団である家族。
その家族の絆が壊れる、もしくは緩む政策など、
政治家は絶対にやってはいけないのだ

 

 

 

 

絆を強めるには?

 では絆を強めるにはどうすればいいだろうか?

 それには色々な方法があるだろうが、
やはり
共通の経験をすることだろう

 学生時代でも同じ釜の飯を食った人は絆が深まりやすい。

 例えば中学3年間、全く同じクラスにならない人もいるが、
同じクラスになった人もいる。

 その場合は同じクラスになった人の方が絆は強まりやすい。

 もちろん例外もあるだろう
3年間同じクラスの人でも仲が悪い人もいるだろう。
幼馴染でも気が合わない奴がいるだろう。

 しかし一般的には共通の経験が多いほど、絆は強まりやすいだろう。

 そして家族が同じ「氏」を持つという共通の経験をすること、
それこそが家族の絆を深めることに繋がるのではないか?

 そういう意味では「夫婦別姓」とは
「同氏」という共通の経験を一つ失うということで
家族の絆を弱める効果を生むのではないか?

 

 それに対して大袈裟だという意見もあるだろう。
例えばこのような意見

同姓を名乗っていても関係が破綻している夫婦など山ほどいる中で、

なぜそこまで同姓に固執するのか理由がサッパリわからない。


このような意見もあることは理解できる。

確かに夫婦別姓でも絆が強い家族はあるだろう。

そういう家族では全く問題ないかもしれない。

しかし筆者は思うのだ。
じゃあ「夫婦別姓」を入れれば
家族の絆は強まるのか

筆者が求めているのは家族の絆を強めること。
それによって紛争(トラブル)を解決しやすい状態にすること。
それによって社会全体のコストを下げること。

隣家の家族がDVばかりしていたら、隣家は気持ち良くない。
その隣家では家族の絆など皆無だろう。

まあそういう家族はどうしようもないが、
政策誘導として共通の経験(つまり「同氏」)を少しでもやり、
少しでも絆を強める方向に誘導すべきではないか?

「夫婦別姓」によって家族の絆が強まるのなら良いが、
そうではないのならわざわざ導入すべきではない。

 

 

 

 

家族の絆が破壊される!

 ところで上記の私の理屈は「家族の絆が強まらない」
もしくは「弱まる」というものである。

 いわば「家族の絆が壊れる」とは意味が違う

 少々弱まってもいいじゃない?
それよりも個人の尊厳を方が重要だ。

 そういう意見もあるかもしれない。

 

 しかし「夫婦別姓」に関してはそうではない。

 筆者は家族の絆に決定的な亀裂が入ると思う。
これは全ての家族で起きる訳ではないが、
そういうケースが確実に増えていくだろう。

 

 それはどうしてかというと、
子供の名前に関わってくるからだ。

 

 この問題は夫婦だけではなく、子供の名前に関わってくる。
つまり子供はどちらの名前を名乗るのか?ということだ。

 この点に関して「夫婦別姓」にお墨付きを与えた
1996年に法制審議会が答申した「民法の一部を改正する法律案要綱」の中で、


子供の名前については

婚姻の際に,あらかじめ子どもが名乗るべき氏を決めておくという考え方が採用されており,子どもが複数いるときは,子どもは全員同じ氏を名乗ることとされています。

選択的夫婦別氏制度(いわゆる選択的夫婦別姓制度)について Q8

赤字は筆者


 

このように事前に夫婦で話し合って、
どちらの名前を採用するかを決定することになっている。

 しかしそのような方法がうまく行くのだろうか?

 なぜなら夫婦別姓を認めるのは個人の尊厳が重視されるからだ。

 例えば今回の判決では15人の裁判官による大法廷で判断されたが、
そのうち11人が合憲であり、4人が違憲とした。

 

 その反対意見を書いたうちの一人草野耕一氏は理由に
~略~ あまりにも個人の尊厳をないがしろにする。~略~
※2021
624日 朝日新聞2

 と述べている。

 では、個人の尊厳は夫婦のみに認められるものなのだろうか?

 もちろん子供にも個人の尊厳が認められるべきだろう。

 そしてそのために家族間が引き裂かれることになる。

 

 

 

 

夫婦別姓が拡大解釈される!

 「夫婦別姓」が認められるのなら、
親子別姓」「兄弟別姓も認められなければならない。

 これは当然だろう
夫婦の個人の尊厳が認められ、別個の氏が認められるのなら、
子供の尊厳も認められ、別の氏が認められなければならない。

 つまり「親子別姓」だ!

 子供は自分のつけたい名前を付ける権利がある。

 夫婦別姓が認められるのに、親子別姓が認められないのは理屈に合わない

 

 またそうなると「兄弟別姓」も認められなければならない。

 子供の尊厳からは必ずそうなる。

 もちろん子供が未成年の場合は認められないだろう。
子供は親の庇護下にあり、それ故にある程度の自由は制限される。
それは合理的な考えである。

 しかし成人したらどうだろう?

 例えば18歳以上になり、選挙権が行使できる年齢になれば、
子供は自らの権利行使として、名前を変えることができる。

 つまり夫婦別姓とは親子、兄弟(姉妹)の別氏も容認する理屈になるのだ。

 

 

 

 

近未来に起きること!

 では「夫婦別姓」が認められ、
さらに「親子別姓」「兄弟別姓」が認められるとどうなるか?

 いくつかのケースを考えてみよう。

 以下では夫「宮本」と妻「佐々木」の名前を使う。

 

(ケース1 子供が反抗した場合)

 夫婦間では事前に子供が生まれた時の名前を決めていた。
2人で話し合った結果、夫の「宮本」を名乗ることになった。
そして子供は「宮本○○」として生活していた。

 しかし子供は父親には懐かず、むしろ母親に懐いた。
そして成人になった時、子供は自らの希望として
「佐々木を名乗りたい」と主張。

 夫婦間での約束を子供が反故にする形になる。 

 

 1996年の法制審議会の答申では、「夫婦別姓」を認めるに際して、
子供の名前を「事前に夫婦で決めておく」としているが、
それは両親が勝手に決めたことになる。

 個人(子供)の尊厳を認めるのなら、当然、子供の意見が最優先され、
かつての夫婦間の約束は反故にされる。

 

 

(ケース2 親族間での取り合い)

 夫婦間では事前に子供が生まれた時の名前を決めていた。

 2人で話し合った結果、夫の「宮本」を名乗ることになった。
 そして子供は「宮本○○」として生活していた。

 しかしそれに不満だった妻側の親族が巻き返しに動く。

親族は子供に取り入り、成人時に妻側の氏を名乗らせようと画策。
うまく丸め込んで、子供が自ら主張する形で妻側の氏を名乗った。

収まらないのは夫側の親族。しかし妻側は「子供が自ら選んだ」と主張。
両者の間がギクシャクする。

 

 

(ケース3 親族間の押し付け合い)

 夫婦間では事前に子供が生まれた時の名前を決めていた。

 最初に生まれた子供が夫の「宮本」で次の子は妻の「佐々木」とする。
しかし最初の子は女の子だった。

そこで夫側親族は約束を反故にして、最初の子は妻側の氏にすると主張。
両者でトラブルになる。

また将来、物心ついた後の少女はその事実を知り、
自分が「いらない子」であると思い、深く傷つく。

 

 

(ケース4 両家の名前を継がず)

 夫婦間では事前に子供が生まれた時の名前を決めていた。

 2人で話し合った結果、夫の「宮本」を名乗ることになった。

 そして子供は「宮本○○」として生活していた。
彼は一人っ子であり、跡取りは一人だけだった。

 しかし子供はかなりのお祖母ちゃん子。
 そして祖母の家は祖母が嫁いだ後、消滅していた。

 その話を聞いた子供は祖母を喜ばせるために、
両親の名を継がず、祖母の名を継ぐことを決心する。

 そのため両家の親族から不満が出る。

 

 

 ここにいくつか書いたが、
ポイントは子供にも名前を選ぶ権利を認めるということだ。

 そしてそうなると、子供の意思だけではなく、
親族が入ってきて自分の方の名前を継がそうと画策することになる。

 もちろん親族は自分の方の名前を継がそうとするし、
そうすると夫の親族と妻の親族が対立することとなる。

 その間で子供は板挟みにあうだろう。

 確かにこれは「夫婦別姓」でなくてもある話だ。
特にある程度の名家と言われる家ではあり得るだろう。

 しかし「夫婦別姓」=「親子別姓」「兄弟別姓」が認められれば、
確実にそのような争いは増えるだろう。

 

 特に問題なのだ。女の子の場合(ケース3)だ。
全く良いことではないが、現在でも男の子を喜ぶ風潮がある。

 それは「男は跡取りになる」という発想があるからだ。

 逆に言うと女の子が生まれると喜ばれない。
つまり女の子の場合、忌避される可能性があるのだ。

 「兄弟別姓」が認められれば、多くの親族間で
子供の「氏」の争奪戦が起きるだろう。

 そして夫側が第一子で、妻側が第二子のように、
事前に決められることもあるだろう。

 一応、夫婦間で決めることになっているが、
親族は必ず口を出してくるだろう。

 その時に女の子が第一子なら、夫側の親族はどう反応するのか?
そして第二子が男の子なら、夫側の親族は納得するのか?

その時のことをのちに知った女の子は、
自分が「必要とされていない」と思い、疎外感を味合うのではないか?

 

 

このように「夫婦別姓」はそこに収まらず、拡大解釈していく。
そして子供の「氏」を巡って、親族同士が対立することになる。

その時板挟みにあうのは子供なのだ。


子は鎹という

子供は夫婦の仲を繋ぎとめてくれるものだというたとえ。

鎹(かすがい)とは

材木と材木とをつなぎとめるために打ち込む、

両端の曲がった大きな釘のこと。

このようにバラバラの材木を繋いでくれるものであり、
夫婦にとっての子供こそ鎹である。

 

しかし「夫婦別姓」を入れれば、むしろ子供こそが
家族の絆を断ち切る要因になりかねない。

子供の「氏」を巡って、両親の親族感が対立するからだ。


 先に引用したように、戦後日本を代表する政治学者の丸山眞男
政治とは「人々の欲求によって起きる紛争を解決すること」と言った。
上記参照。

しかし「夫婦別姓」はその
我々が所属する最小単位の集団である家族の絆を分断し、
むしろ紛争を激化しようとする。

このような政策を遂行するのは政治家のやることではない。

 

「夫婦別姓」は速やかに葬り去るべきだ

もしビジネスの場などで不利益があれば、
それは旧姓を拡大することで対応すればよいのだ。

 

 

 

筆者は昔、朝日新聞のエース記者のファンでした。
 そんなお花畑が、目覚める
キッカケとは?